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戦後60年 慰霊碑巡礼第3部ルソン編

第5回 ・ 虐殺被害者の声なき声

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ルンバン地区に建つ慰霊堂。レセノさんの脇腹や首下には今も銃剣の傷跡が残る

 その事件が始まったのは、米軍がマニラを奪還して約十日後、一九四五年三月四日午後十一時すぎだった。ルソン島バタンガス州リパ市ルンバンの全住民約千人が川の土手や斜面に集められ、男性は後ろ手で縛られ、女性も逃げられないよう数人ずつひもでつながれた。

 「まず殺されたのは男。数人の日本兵に取り囲まれ銃剣で脇腹や背中を刺されていった。わたしも腹部二カ所と首の下辺りを突かれた。首下の傷からは『プシュー、プシュー』と五分間ほど肺から空気が漏れる音がした。男の次は女と子供。皆殺しだった」

 六十年前の太平洋戦争末期に起きた「リパ大虐殺」。数少ない生き証人、イウフラシオ・レセノさん(76)は、今なお消えない傷跡を指さしながら、「抗日ゲリラ掃討」名目の凶行を語り続けた。

 「すべてが終わったのは翌五日の午前三時すぎだったと思う。上向き状態で死んだふりをしながら、目を開けるとまん丸な月が出ていた。夜が明け、周囲から日本兵の気配が消えたころ合いを見計らい、川を渡って向こう岸へ逃げた。土手は住民の死体で埋まり、一緒に連行された兄を探したが見つからなかった」

 近隣のカビテ州などに身を隠していたレセノさんがルンバン地区へ戻ったのは、日本軍がルソン島北部へ去った四月。住民の大部分が殺害された故郷は、敗走する際に日本兵が放った火と米軍機の爆撃により、家々の多くが焼失していた。兄も結局、戻らなかった。

 今、同地区には約五百の家々が立ち並ぶ。二千人を超える住民の大半は戦後、近隣から移り住んできた人々だ。

 レサノさんら生き残った古老数人によると、戦前から現在まで同地区に住み続けている家族は「レサノ、ヘレラ、マラベ、レイエス、エンリケス、マガリン、デグズマ、デロザリオ、メルカド、マリエタ、ベラスコ、レストー、ピナハ」という十三家だけ。他の家族は虐殺事件で絶えたか、消息不明になったという。

 虐殺被害者の遺骨収集が始まったのは四六年。千柱以上の遺骨が同地区にある慰霊堂に納められ、堂内にはフィリピノ語で「戦争中の一九四五年三月四日、日本人に殺された千人以上の老若男女の遺骨をここに埋めたことを知らしめる」と刻んだ石版が掲げられた。

 この虐殺の地で、九二年から比人犠牲者の慰霊祭を続ける日本人がいる。マカティ市の民間団体「比日文化協会」の三木睦彦会長(89)。日本からやって来る遺骨収集団の姿に接し、「日本兵が死んだ土地では草木が育ち、その草木とともに生きているのが比人だ。日本人は比人犠牲者の慰霊や今を生きる比人のためになるようなことをしなければならない」という思いに背を押された。

 戦後半世紀の九五年には、「虐殺事件を教訓としながら、憎悪やえん恨を乗り越えた比日関係を」と、同地区に「世界平和祈念塔」(高さ約十メートル)を建立。総工費約三百五十万円は個人約百五十人とリパ市内に進出した日系企業一社の募金でまかなわれた。

 塔を建立した際、「父母ら一家の働き手を殺された遺族は学校もろくに出られず、今も貧しい生活を送っている。彼らにとって虐殺は決して過去のものではない」と話した三木会長。

 生き証人のレセノさんは、祈念塔建立から十年がたった今も、「傷の後遺症で満足に仕事をできず、子供三人には十分な教育を受けさせてやれなかった。だから、恥ずかしくて(子供に)小遣い銭をくれとも言えない。神様に救ってもらった命が尽きる前に、日本政府から補償金をもらえれば」と声なき声を発し続けている。(酒井善彦)

(2005.12.11)

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