戦後60年 慰霊碑巡礼第3部ルソン編
第3回 ・ 伝承される軍の非行
太平洋戦争の初期、日本軍と米・比両軍が死闘を繰り広げたルソン島中部バタアン州サマット山。ふもとのピラール町ディワ・バランガイ(最小行政区)に「比島戦没者慰霊碑」が建つ。山頂へ向かう道路の右側、わずかに斜面になった場所で、金網で周囲を囲まれた高さ約一・五メートルの碑だ。背後には「昭和五十七年四月十日、野戦重砲兵第一総隊会(比島派遣軍垣第六五二三部隊)」と刻まれている。
碑からわずか五メートルほどの距離にサリサリストアがあった。店主のダーウィン・アレラノさん(35)と妻(30)の間には九歳の長男と五歳の長女、そして十日前には待望の次男が生まれたばかり。缶詰や洗剤、スナック菓子、コメなどの日用品が並ぶ店舗の奥の部屋で眠る赤ちゃんを見る目が温かい。
しかし、アレラノさんの物語の内容は険しかった。「日本人が聞くと傷つくかもしれない」と前置きして、大叔父のフィデルさんから聞いたという話を聞かせてくれた。八十歳代で今も健在なフィデルさんはバタアン戦闘に米軍の予備部隊の兵隊として参戦した。
一九四二年初め、同町パンティンカンを流れる川近くに、子どもを含む女性の住民たちが集められ、日本兵に性的虐待を受けた。拒否した女性は川に沈めて殺された。遺体はそのまま放置され、葬礼も日本軍によって禁じられたという。
サマット山での戦闘で孤立し、餓えをしのぎながら空しく米兵の救援を待った経験を持つフィデルさんは、町に日本人が訪れるたびに怒りをあらわにした。
しかし、アレラノさんは「過去は過去」と屈託なく話した。自宅の目と鼻の先にある慰霊碑に関しても「過去の歴史を踏まえた上でのフィリピン、日本、米国の友好のあかし。ネガティブにはとらえていない」と言った。
隣人が管理する慰霊碑には年四回ほど日本人が訪れるという。日本人が来る前に碑の周辺は清掃され、整えられる。「ここを訪れる日本人とはあまり話さないが、彼らは何かを恐れ、恥じているようにも見える。年四回も来訪するのだから、日本人はそれで『償い』をしているのかもしれない」と、アレラノさんは考えている。
話が再度、碑に及ぶと、アレラノさんの表情がわずかにかげった。慰霊碑が日常生活の中に鎮座しているのだ。「自分がもしブラカン州出身だったら何も感じないはず。バタアン州出身だから、感じるものが自分の中にある」と複雑な胸中を打ち明けた。「バタアン死の行進」の心の傷はまだ残っていることをそれとなく打ち明けたのだろう。
一九四二年初め、バタアン州とコレヒドール島に立てこもった米・比軍と日本軍との攻防は翌年三月まで続いた。四月九日に比米両軍が降伏、「死の行進」では捕虜七万八千人が徒歩で移動を命じられ、飢えと病気で一万人近くが命を落としたとされる。当時の日本軍司令官、本間雅晴中将はその罪で処刑された。
比米両国兵士の栄誉をたたえ、サマット山頂にそびえる巨大十字架は勝者の鎮魂のシンボルだ。山頂へ向かう山道の途中に、大十字架とは対照的に、旧日本軍の遺族らによる慰霊碑が三つほど、ひっそりと日を浴びていた。 (佐藤直子)
(2005.12.7)