戦後60年 慰霊碑巡礼第1部ダバオ・セブ編
第4回 ・ 「焼き討ち村」の慰霊塔
最近、ネグロス島東南端にあるドゥマゲティ市を訪ねる機会があった。知人の弁護士の車で、標高一九〇四メートルの「クエルノス・デ・ネグロス山」を目指したが、途中のバレンシア町で意外な発見をした。
道路沿いに何と日本語で「博物館」と書いてある。入り口には太平洋戦争中の米軍の空襲用大型爆弾が立て掛けてある。迎えてくれたはだしの老人は「ポルフェリオ・カタアール」という元比国軍人で、今は八十一歳のベテラン(在郷軍人)。
一種の武器マニアなのだろうか。建物の中に入って驚いた。わたしたちが戦争中、学校の軍事教練で担がされた「三八式歩兵銃」や「南部式短銃」「九二式重機関銃」などが銃弾と一緒に並べてあり、私の妙なノスタルジアをそそった。
アルバムも見せてくれたが、その中に「慰霊塔」があった。びっくりして尋ねると、クエルノス・デ・ネグロス山の連峰「タリナス山」の頂に今もあるが、道が悪く険しいから最近は誰も行かない。乗用車ではとても登れないそうだ。
翌朝、四輪駆動車を調達して出発した。なるほど、ちょっとでも運転を誤ったら千尋の谷底へ転落だ。もちろん舗装されていない。怖い思いでようやく到着した山頂部は意外にもきれいに掃除され、芝もきれいに刈り取られている。
慰霊塔は鉄筋コンクリート製に真っ白の大理石を張った高さ八メートルもの尖塔(せんとう)で、なぜか何の文字もない。そばの塀に「慰霊塔由来記」を書いた青銅板のパネルがあったらしいが、今は盗難に遭って外れたまま。
管理人カタアル氏が亡父から聞いた慰霊碑の由来に耳を傾けた。
戦争中に日本軍はこの山村に逃げ込んで、平和に暮らしていた。そこへ米軍機の空襲があり、村へガソリンをまいてから焼夷(しょうい)弾を投下した。日本軍将兵も村民も火の玉になって転げ回り、ほとんどの人が焼け死んでしまった。 部隊長だった原田大尉は、日本兵と同じように村民の治療にも当たったという。今、この地域は「ナソノグ」と呼ばれるが、その意味は「焼き討ち」だ。東ネグロス州の知事は代々原田大尉を恩人として申し伝え、今もこの慰霊塔を保守する費用を出している。
管理人の男性は「原田さんは亡くなったかもしれないが、村民の皆はまた彼が来てくれることを祈っている」と言う。
ルソンやレイテ、セブの戦記はあるが、ネグロス島のものは今まで見当たっていない。知人の弁護士が調べて、バレンシア町役場から若干の資料が得られた。それも資料の内容は公式 記録だからか少々話が違う。米軍は終戦後もトンネルなどに潜む日本兵や比村民を火炎放射器で焼き殺したらしい。しかもこの地域の日本軍が降伏したのは終戦後一カ月以上たつ一九四五年九月二十二日だったという。
この慰霊塔は一九七七年四月二日、主として原田大尉と洲本ライオンズクラブの資金で完成した。以来、慰霊塔へのアクセス道路の保守管理は東ネグロス州が、慰霊塔公園の保全管理は地元バレンシア町がそれぞれ費用を負担している。
日本人としてうれしい話ではある。しかし「文字一つ書かれていない慰霊塔」には、亡き人たちは本音では何と書きたかったのだろうか?不思議に訴えるものがある。 (岡昭、つづく)
(2005.1.5)