ハロハロ
「うちの先生には、天才と狂人が同居している。ご配慮をお願いしたい」。インタビューの後、見送りに来た秘書官の一言に虚をつかれた。「先生」と呼ばれる人へのインタビューは少なくないが、秘書官にそんなことを言われたのは、後にも先にもこれ限りだ。
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先生とは、戦後右翼の中で異色の存在だった田中清玄(きよはる)。田中の名が広く世に知られるようになったのは、日米安保闘争
の一翼を担った全学連に陰で資金援助をしていたのが分かった頃から。後に革新都知事だった美濃部亮吉の密使として訪中したり、石油危機の際には政財界の意を受けて中東の産油国へ飛んだ。意表をつく言動が話題になる人だった。母親が会津藩家老の末裔(まつえい)の家柄。元共産党の闘士で、いわゆるコミンテルンテーゼの後、転向した。
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先のインタビューの後から田中を囲む昼食会に呼ばれるようになった。ワインと出前のフランス家庭料理を飲み食いしながら放談する会で、出版社の田中担当の編集者が主だったが、なかに後に芥川賞をとった辺見庸もいた。ある時、拙著が大手紙の書評に載ったのが話題となり、翌日、遅まきながらと田中の元へ本を届けに行った。昭和天皇の戦争責任をめぐる日米攻防と近衛文麿の終戦工作などの舞台裏をまとめた共著だったのだが、田中はパラパラとめくっただけで「近衛を買いかぶりしすぎ」と一蹴した。長いジャーナリスト生活の中で、田中は忘れ得ぬ1人である。(邦)