ハロハロ
異臭を放ち累々と横たわる市民と日本兵の屍(しかばね)……。太平洋戦争末期の一九四五年二月、マニラは市民を巻き込んでの悲惨な戦場になった。米軍は火砲百二十門と戦車を備えて三日、マニラ市街戦を開始。迎え撃つ日本軍は乗艦を失った海軍部隊と、小銃代わりに竹やりを持たされた在留邦人の現地召集組が主体の陸軍で、総勢二万九百人。圧倒的に優勢な米軍と一度も互角に戦うことなく半数以上が戦死した。
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劣勢だった日本軍の結末を象徴する惨事が同月十六日深夜、リサール公園で起きた。海軍防衛隊の百人が匍匐(ほふく)前進で公園を横断、リサール記念像に到着したところで、照明弾とサーチライトに照らし出されて一斉射撃を受け、全滅した。目的地のマニラホテルでは、重傷の日本兵は毒入りの「別れの杯」をあおり、軽傷者は手投げ弾で自決を命じられたという。
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マニラ市街戦で十万人の市民が犠牲になったと米軍戦史は推定している。壮絶だった米軍の砲撃による犠牲者は少なくないといわれるが、日本軍が多数虐殺した事実も否定できない。大戦中に亡くなったフィリピン人は百十万人、日本人が五十二万人で、彼我共に庶民。日本がこの地に残した「負の遺産」は大きい。私たちの国が、この国で過去に何をしたか ——。若い世代の在留邦人の方々にもその事実を知っていただきたくて、また「マニラの悲劇」をとりあげた。 (濱)