特攻隊慰霊碑の維持・支援に尽力 比日2人に在外公館長表彰授与
特攻隊慰霊碑の維持、支援に尽力したディソンさんと竹内さんに在外公館長表彰
首都圏マカティ市の日本大使公邸で21日、パンパンガ州マバラカット市在住のリベラトゲデオン・ディソンさん(65)とその支援者の竹内ひとみさん(64)に在外公館長表彰が授与された。
リベラトゲデオンさんは、同市内に第2次世界大戦時の神風特別攻撃隊員を慰霊する碑を建立した父親の故ダニエル・ディソンさんの長男。竹内さんは25年にわたって、リベラトゲデオンさんや慰霊碑を多方面から支援してきた。ダニエルさんは日本語訳された「フィリピン少年が見たカミカゼ」の著者。
越川和彦駐フィリピン日本国大使は表彰式のスピーチで、第2次世界大戦中の日本軍占領下、パンパンガ州で育ち、まだ少年だったダニエルさんが、1974年にマバラカット飛行場跡地に特攻隊慰霊碑を建立するに至った経緯を説明した。それによると「しばしば日本軍駐屯地を訪ねた少年(ダニエルさん)に対し、日本兵は菓子を与えたり、遊び相手になったり」と親切に接していた。「それがきっかけで少年は兵士の忠誠心や義務への理解を学んでいった」と伝えた。
戦況の悪化に伴い、少年はアンヘルス市内で白い鉢巻きを巻いた日本兵を見かけるようになった。その兵隊らがマバラカット飛行場から飛び立ち、ついに戻らなかった理由を、ダニエルさんは戦後の古本屋の本の中で見つけ出すことになる。多くの死者を出し、戦争の被害者側であったフィリピンでは、知る人も少ない「戦争加害者の歴史」。多くの比人が日本に憎しみを抱いていた中で、ダニエルさんは同慰霊碑の建立に向けて働きかけていった。同胞からは「なぜテロリストを記念するのか」と非難の言葉を投げつけられる経験もしたという。
その上で越川大使はダニエルさんが「両国の歴史において、より思いやりのある視点を広め、両者の深い理解の育成に努めた」と称えた。同様に長年にわたりボランティアで特攻隊慰霊碑の通訳ガイドを引き受けるなど、日比の「歴史理解の推進者を実践してきた」竹内ひとみさんも表彰を受けた。
▽「嬉しさに震える」
「ディソン・カミカゼ博物館」と名付け、特攻隊の飛行操縦士に特化した展示品を自宅の一角で公開していたダニエルさん(1930~2015年12月10日)亡き後、長男のリベラトゲデオンさんがその維持を続けてきた。まにら新聞に「「嬉しさに震えている」と感激を表した。
一方で「父の生前に日本政府から招待を受けたことは一度もなかった。なぜ今自分がここにいるのか正直驚いている」と笑った。博物館や慰霊碑は「クラーク基地の米軍関係者らも普通に訪れる場所だ」と比を除いては、特攻隊を巡る政治的問題は無い点に言及した。リベラトさんはいまだ多くの比人が「悪い情報を与えられている」と比の歴史認識を嘆いた。
▽「海がきれい」で渡比
顕彰会の会員でもある竹内さんは約25年前に「徳洲会の徳田虎雄先生から『一緒にフィリピンに行かないか。海がきれいだよ』と誘われて付いてきた。その時ディソンさん(父親)と知り合い、こんなに日本のことを思ってくれる人がいるのかと驚いた」と当時を回想。以来比に通い始め、「特攻隊が飛んだ10月24日の慰霊祭の準備をしっかりするためにも、22~23年前から自分も住み始めた」と振り返った。
アンヘレス市郊外で一人暮らしの竹内さんは、近所の猫や鶏20匹ずつに餌やりをしながら、慰霊碑の管理やアエタ族の子どもたちの支援にも力を入れている。日本には竹内さんの活動を支援している特定の友人がいるという。この日の表彰式にはバスで2時間半の道程を乗り継いできた。「今年で25年目」という特攻隊の慰霊祭。「コロナ禍の3年間は1人で行なってきた」とも明かした。
日本全国に約1200人の会員を持ち、日本各地での慰霊祭に加え、例年一度は比へも慰霊に訪れるという公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会。同会からも福江広明理事ら3人が訪比し式を見守った。
福江理事は「素晴らしい表彰式に参加でき、大変感激している。日本を出発前に、ディソンさんの著作を読んできた。フィリピンで特攻隊員への慰霊が続くことを祈念している」と述べた。(岡田薫)