父マルコス政権とは何だったか ジャーナリスト大野拓司氏講演(上)
故マルコス政権期を経験したジャーナリスト・大野拓司氏がマルコス政権を振り返った。その内容の前半を紹介する。
アジア専門誌「REAL ASIA」編集部は7月30日、ジャーナリストの大野拓司氏を講師に招き、「マルコス元大統領の独裁政治とは何だったのか」をテーマにウェブ講演会を開催した。元朝日新聞マニラ支局長などを歴任した大野氏は、故マルコス元大統領の第2次政権~戒厳令期に当たる1970年7月~77年5月までフィリピン大の大学院生として同政権下のフィリピンを経験。現在、当時を知る数少ない邦人ジャーナリストとなっている。「ゴールデンエイジ」物語の虚実が拡散され、息子のボンボン・マルコス現大統領が父の背中を追う政策を打ち出す今日、自身の経験を交え故マルコス政権の実像に迫った。
大野氏は「自分はマルコス政権の評価すべきところも悪い部分も知っているため、単純化して説明できない。なので、ときに『あいつはマルコスから酒を飲まされている』と言われてしまうこともある」と自己紹介。その上で、マルコス政権の20年を「全て『独裁政治』と言い切るのは粗雑。前半はよく、後半は悪かった」とし、「しかし政治は結果責任。『終わり悪ければ全て悪し』という意味で、悪い政権だったということになる」と総評した。
▽「病める社会」
大野氏は故マルコス政権発足前の比社会から説明。60年代、比は19世紀頃からサトウキビなどの換金作物のプランテーション開発を通じて形成された富裕層が富を独占しており、「今でも大きくは変わっていないが、当時は一握りの特権階級が極めて豊かで、大衆層は貧しいという2層構造が著しかった」。大野氏が比に留学し始めた70年代はじめでも「富裕層の子弟は運転手付きのアメリカ車で通学するのが普通だった」と回想した。
大地主層は政治の世界にも進出し固定化。当時、国民党・自由党という2大政党による政権交代がなされ「米国流民主主義のショーウィンドー」ともてはやされていた。しかし、その実態は「大地主層が支配するエリートデモクラシーだった」。
更に、人口構造が急変した時期でもあり、「1946年の独立時に1800万人だった人口が70年には3600万人に倍増」。急増する人口が都市部に流れ込むも、それを吸収する雇用がなく、不法占拠地区のスラムが増殖していく。人口増加は「貧困化をもたらし、共産主義化に結びつくと反共派の間で危険視されていた」。こうした経済・社会・政治構造をマルコス元大統領は「病める社会」と呼んだ。
▽コメと道路
大野氏は、「マルコス元大統領は下院議員になった時から『いつか大統領になる』と決めていたそれまでにない大統領だった」と述懐する。1965年の大統領当選後の第1期で打ち出したのは「R&R」(コメと道路)。マルコス元大統領は農業政策を主導しコメの増産を約束。しかし、これは「国際稲研究所(IRRI)が収穫量の多い品種『IR8』の開発に成功したという情報をつかんでおり、十分な目算を持ったスローガンだった」。コメの自給は比にとって悲願。マルコス元大統領はその後「68~70年にかけてコメ自給を達成した」と発表している。
一方、道路建設には前例のない国軍工兵部隊の投入に踏み切る。元大統領は「4年でマカパガル前政権の10倍以上の1万2000キロまで延伸」したと誇った。
▽救済という名の殺害
1969年に前例のない大横領2期目の当選を決め、任期中の72年9月、元大統領は「左派(=共産主義勢力)、右派(=伝統的財閥)による国家転覆危機からの救済」を掲げ、戒厳令を発令。1935年共和国憲法の戒厳令条件を満たすとして「立憲主義権威主義」を名乗り、「独裁」批判に対抗した。また、同時に戒厳令下に5回の国民直接投票(レファレンダム)を実施した。こうした権力の正統性への配慮は「他国の開発独裁元首に見られなかった」と大野氏は話す。
マルコス元大統領は「病んだ社会」の処方箋として①治安②土地③経済④精神⑤行政⑥教育⑦社会サービス――の7改革からなる「新社会」(バゴン・リプナン)のビジョンを掲げる。「国家による宣伝も巧みで、私も未だにバゴン・リプナンの歌を歌える」と大野氏は振り返った。
新社会で掲げた治安向上、農地改革、財閥解体、経済成長などの目標は、戒厳令布告翌年の経済成長率が8・9%を記録するなど「(戒厳令)前半の76、77年頃くらいまでは成果が出ていたし、それを巧みに宣伝していた」。
一方で、数千人の反体制派が拘束され「その中でも多くの人が『サルベーション』された」。サルベーション(=救済)は「『殺害』の隠語。オウム真理教の『ポア』と同じ」。ただし大野氏は、「弾圧の対象にならない人が多数派だったため、その人たちの(マルコス政権に対する)評価は弾圧に遭った人とは違うのではないか」と分析している。(竹下友章)=(下)に続く=