台風ヨランダ(30号)
被災地ルポ3 記者が被災地入りから首都圏に帰還するまでの取材体験を報告。雨ざらしの夜に野宿
台風ヨランダ(30号)襲来で壊滅的な被害を被ったタクロバン市に入ったのは10日午後。被災地では深刻な食料、水不足に加え、通信網が遮断され、本社との連絡すらままならなかった。雨が降り続く夜を記者は雨ざらしのまま野宿で過ごした。被災地入りから首都圏に戻るまでの取材体験を報告する。
▽セスナ機でレイテ入り
「明日、レイテ島に取材に行ってくれ」。上司から電話があったのは9日午後10時ごろ。少しばかりの着替えとパソコン、カメラを持ってマニラ空港に向かい、10日午前5時ごろ、フィリピン航空便でセブ・マクタン国際空港へ飛んだ。
セブ空港からは小型セスナ機でタクロバン市に向かった。眼下に広がっていたエメラルドブルーの海の光景は、被災地の上空に差し掛かると一変した。根こそぎなぎ倒されたやしの木、屋根を吹き飛ばされ、崩壊した家々。まるで爆撃跡のようにさえ見えた。
▽もらい水
被災地取材での一番の悩みは、飲み水の確保だった。記者が持ち込んだ水は2リットル瓶2本だけ。炎天下での徒歩の取材で水は11日午後にはすっかり無くなり、日本の報道仲間に頭を下げ、水を分けてもらった。セスナ機には重量制限があり、水と食料をわずかしか持ち込めなかったのが最後までたたった。食べると余計にのどが渇くので、水が尽きてからはなるべく食べないようにした。そうした記者を見かねたのか、政府関係者が1度だけイワシの缶詰と、たきたての白米を分けてくれた。頬が落ちるほどおいしく、のどの渇きさえ忘れさせてくれた。
▽雨ざらしの寝床
報道陣は空港内にある半壊した建物を詰め所として使わせてもらうことになった。ところが、行ってみると詰め所の前にはひっくり返った車やがれきがあふれ、建物の中も崩れ落ちた壁の破片や天井のコンクリートの塊が散乱。仕方なく記者は詰め所のひさしの下に、拾ったビニールシートを敷き、寝床にした。深夜、断続的に雨が降ると、ひさしは全く役に立たず、風と雨を体に受けながら、まどろんだ。
▽被災者と共にマニラへ
12日朝、マニラへ戻ることになった。しかし、タクロバン空港は航空機の離発着が規制され、比米どちらかの軍用機に乗るしかない。
軍関係者に頼み込んだが、被災者の避難が優先され、折衝は難航。約10時間待たされて、ようやく首都圏パサイ市ビリヤモール空軍基地行きの米軍輸送機C130に乗ることができた。機内には車椅子の老婦人や乳飲み子を抱えた女性がいた。
「本来ならば、被災者が優先されるべきなのに」��。機内の通路に座り小さくなってうつむいていたら、隣りの席にいたホセ・カスティリエホスさん(51)が話し掛かけてきた。盲目の妻と共に首都圏に避難するところだという。カスティリエホスさんは「君は日本人記者か。一刻も早く多くの人に被害を知らせてくれ」と記者の目を真っすぐ見つめた。(鈴木貫太郎)