比日新時代の芽生え
第3回 ・ 日本人女性がマニラの若手芸術家とアートスペースを立ち上げ
「初めてのマニラ行きの機内で見た光景に驚いたのをいまだに覚えています。同じ東南アジアでもタイへ向かう便だと老若男女、家族連れやカップル、学生、バックパッカーもいる。でも、フィリピンへ行く層は大半が里帰りのフィリピン人女性か、中年の日本人男性に限定されていて、私ぐらいの年齢の女性は誰もいなかったので、正直不安になりました」
大阪市出身の平野真弓さん(34)は、2000年代初頭まで風俗歓楽街として知られた横浜市黄金町の地域振興を担う非営利団体(NPO)「黄金町エリアマネジメントセンター」に所属し、アートを通じた町の活性化に尽力する学芸員(キューレーター)だ。2011年8月にマニラで活動するフィリピン人現代美術家のマーク・サルバトスさん(32)を1カ月間招へいした縁で、同年秋に初めてのフィリピン観光へ。
機内で1人募らせた不安は、サルバトスさんの案内でマニラの芸術家たちと交流する中で一掃され、フィリピンのアートシーンにあっという間に魅了されたという。
「路上や街中で制作発表したり、社会にかかわる手段として生活の延長線上でアートを捉えている作家が多く、とても共感が持てました。しっかりした美術館と教育機関があり、町には商業ギャラリーが点在していて、アーティストが集うコミュニティーもある。環境は十分整っていました。それに人も国も本当に魅力的。行きの機内の光景を思い出しながら、日本の人たちにフィリピンの多様な面白さを知ってもらうために、アートを通じて何かできないかと考え始めたんです」。
平野さんは帰国後、2カ月に一度のペースで渡比し、精力的に日比の芸術交流に力を入れ始める。昨年1月にはマニラ市エスコルタに、サルバトスさんら若手アーティストたちと共同運営するアートスペース「98B」を開設。8月には、98Bを受け入れ先に日本から作家2人を派遣し、「YOKOHAMANILA」(ヨコハマニラ)と題した芸術交流事業を企画、制作発表も行った。
「エスコルタは日系企業も多く進出していた金融、商業の中心として栄えた歴史ある地域と聞きました。ところが、今ではかつての活力はなく、黄金町と同じようにエスコルタの活性化を日比の芸術交流を通してやれたら面白いと思いました。そんなタイミングでマークと一緒に立ち上げた98Bにアーティストコミュニティーが生まれ、ますますフィリピンにのめり込んでいったんです」。
平野さんによると、東南アジアの中でもフィリピンのアート事情に関する情報は他国より圧倒的に少ない。だが、サルバトスさんのような若手を中心に、エネルギッシュで自由な発想を持ったアーティストも増えている。汚職がはびこる政治や貧困など社会問題に対するアクションとして、アートを通じて表現することも盛んだ。「欧米などのマーケットを意識した表現とはまた違った文脈でアートが社会に浸透し始めているのが面白い。そうしたフィリピンのアートを日本を含めた海外にもアピールすることで、この国の魅力を広く知ってもらうこともできるのでは」と平野さんは言う。
平野さんたちが立ち上げた98Bは現在、エスコルタでフリーマーケットを開催したり、ワークショップや制作発表の場としてさまざまな企画を行っている。そして、アートを通じてフィリピンと関わりを持ったことで、平野さん自身の人生も大きく変化しようとしている。初めての来日以降、共に活動してきたサルバトスさんと今月結婚し、7月からはマニラで生活を始める。
「不思議ですね。気づいたらフィリピンと生涯を通じて関わっていくことになりました。日本とフィリピンの交流がより多様な形で広がっていけば、きっとマニラへ向かう機内の風景も少しづつ変わっていく気がします。私もこれからはマニラを拠点に、アートを通じてそのきっかけが作れるよう、人生をかけて挑戦してみたいと思っています」。(野口弘宜)
※98B公式HPはwww.98-b.org
(2013.1.4)