「平和へのバトンを君たちに」 加納博物館名誉館長が講演
70年前のキリノ大統領の恩赦令の意味について加納博物館の加納佳世子名誉館長が講演
ニュービリビッド刑務所に収監されていた死刑囚を含む日本人戦犯105人に対して、70年前の1953年7月6日に特赦令を出したキリノ大統領=当時=に対して助命嘆願活動を行っていた画家の加納莞雷(本名・辰夫、1904~1977)の四女で加納美術館(島根県安来市)の名誉館長を務める加納佳世子さん(78)が14日、首都圏タギッグ市のマニラ日本人学校で講演を行った。
同校の小学6年生から中学3年生までの100人を超える生徒たちが、佳世子さんによるパワーポイントを使った莞雷の生い立ちや戦争中の活動、そして戦後のキリノ大統領に対する助命嘆願活動や最近の加納家とキリノ家との交流などに関する1時間半近い説明に最後まで聞き入った。
「平和へのバトンを君たちに」と題された講演では、まず戦前から美術教員だった加納莞雷が戦時中に戦争画家として朝鮮半島に送られ、中国大陸での悲惨な戦争の様子を大きな絵画にしていたことや、戦後に故郷に帰ってからは戦死した隣人の家を訪ねて、フィリピンなど戦地で亡くなった軍人たちの肖像画を多数描いて遺族に提供していたことなどを紹介。
その後、莞雷はマニラから復員してきた古瀬貴季元海軍少将と出会い、少将から「戦争は間違いだった。将来のある若者を死地に送り込んだ私の罪は大きい」と聞かされる。マニラ軍事法廷での死罪を受け入れる意思を固めていた古瀬氏がその後法廷に臨み、死刑判決が出たのを契機に、当時4歳だった自分を連れて上京し、助命嘆願活動を開始した父親の様子を佳世子さんは説明した。
莞雷は、マニラ市街戦で妻子4人を日本兵に殺されたキリノ大統領に宛て43通の嘆願書を送る。最初は古瀬氏の助命を求めていたが、日本人戦犯全員の赦免を求める内容に変化している。
これについて佳世子さんは講演で、「赦(ゆる)し難きを赦す」ことと「憎しみの連鎖を断ち切る」ことの重要性を大統領に訴えると同時に、赦免された古瀬氏ら戦犯が日本に帰国し、国民に平和の重要性を訴える使命を果たすことになると莞雷は期待していたことを強調した。
1953年7月22日に古瀬氏を含む日本人戦犯105人が大統領の恩赦令を受けて横浜港に戻ってきた際には莞雷は「歓迎する人々がたくさん集まっているが、いったい彼らはキリノ大統領がなぜ許したかを理解しているのだろうか」と周りに語っていたという。
▽「伝える」ことの大切さ
佳世子さんは、生徒たちに現在のロシアとウクライナの紛争についての報道や戦争自体が一度始まると容易に終わることができない性質を持つこと、フィリピンをはじめ東アジアや東南アジアを占領した当時の日本の政策などを分かりやすい言葉で説明するとともに、生徒たちに何度も質問して手を挙げさせることで、自分の意見を表明することの大切さも訴えかけた。
最後に、2016年にマニラ日本人学校の生徒たちに講演したことや翌17年には同校の文化祭で生徒たちによる「キリノと加納の平和への絆」という演劇を鑑賞したことも紹介。前回の講演を聞いた当時の女子中学生が弁論大会で「伝える」という題名の大統領恩赦令をテーマとした弁論を行った際の録音テープの内容も再生して紹介した。
講演を聞いた6年生の佐田結香さん(11)は「平和について改めて考えさせられた。加納さんのバトンを受け継ぎたいと思った」と感慨深い様子で答えていた。片山公善校長は「本校では普段から平和学習を行っており、佳世子さんがマニラに来ると知り、ぜひとの思いで講演会を企画させてもらった。戦争をやってはいけないんだということが生徒たちに伝わったと思う」と話した。(澤田公伸)