フィリピン移民120年④ 比国民として尽力 フィリピン日系人会・大下惠美子会長 就籍事業など日系人問題に
フィリピン日系人会のアントニナ・大下・エスコビリャ会長にその半生と日系人問題への取り組みを聞いた
ダバオ市のフィリピン日系人会長を10年以上務め、日系人の地位向上、残留邦人の就籍事業に今も力を尽くしているアントニナ・大下・エスコビリャ会長。長年の功績で2018年に旭日小綬章も受章している。同会長の日本名は大下惠美子(おおしたえみこ)。本人も戦争によって日本人父との死別を経験した、日系人問題当事者の一人だ。
▽帰らぬ父を待ち続け
エスコビリャ会長は1940年生まれ。父・大下岸松は、1941年の開戦後直ぐに招集されたため、父の記憶はない。母ブイナによると、父は広島出身、戦前のダバオの比日新聞社で働いていたという。招集されたきり父は戻らず、母は戦時中、子どもたちを連れて山に隠れ、イモを育てたり、川の水を飲んで飢えをしのいでいた。
戦後、母は雑貨店を経営し、きょうだいは靴磨きなどをして家計を助けた。5歳上の兄・敏政は「日本人の子というだけで学校で罵倒、暴行され、学校から帰ると傷だらけになっていた」。家族は迫害を逃れるため、母の姓バルトロメを名乗り比人として暮らすことにする。貧苦のなか、エスコビリャさんは工場で働きながらハイスクール(日本の中学~高校1年相当)を卒業する。
母は再婚せず父の帰り待ち続けていた。60年代になって、父の知り合いのダバオ生まれの日本人が来比すると知り、会いに行ったところ、父は45年7月に戦場で病死したと知った。それを知った母は泣き崩れた。
▽「勤勉な日本の血」
ハイスクール卒業後、エスコビリャ会長は裁判所書記官として働き始める。当時、二重国籍は認められておらず、政府職員は比国民である必要があったため、日本国籍を放棄し比国籍を選択した。当時は父が日本の戸籍に自分を登載してくれていたことさえ知らなかった。
裁判所で働きながら、法の下の平等を追求する法律家になりたいとの思いを強め、大学に進学することを決意。法学を専攻するには別の学位が必要だったため、先ずは会計学で4年、その後法学で4年、司法試験勉強に約1年かけた。その間結婚もし、子どももできていたが、足掛け10年間、仕事、子育て、学問の三足のわらじを履きながら33歳のころ司法試験に合格。検察官を経て裁判官となった。
「頭脳明晰(めいせき)だったんですね」という記者に「私は決して秀才ではない。学問に真剣だっただけ」とエスコビリャ会長。「私には勤勉な日本人の血が流れている。だから私にはできるはずだ」と自身に言い聞かせて努力し続けたという。
▽30年以上の取り組み
フィリピン日系人会が設立されたのは1980年。エスコビリャ会長は80年後半に入会した。当時の日系人は極貧の中にあった。同会長は法律専門家として日本人の祖先が所有した土地所有権の調査、日本人の子孫への教育環境整備、日本国籍取得のための書類作成、裁判所への比側の記録修正の申し立てなど、多岐にわたる日系人地位向上事業に取り組んできた。
長年の取り組みが評価され、2018年に旭日小綬章を受章。伝達は当時の河野太郎外務大臣から行われた。感想を聞くと会長は「非常に光栄なこと」としながら、「日系人会の一員として当然の仕事をしていただけ。全く予期していなかった」と語った。
同会長によると、日系人は①日本の戸籍に登載されているカテゴリーA②父親の戸籍が特定されているカテゴリーB③父親の戸籍が見つかっていないカテゴリーC――の三つに分類される。就籍問題は主にカテゴリーCの問題で、NPOフィリピン日系人リーガルサポートセンターが主導し、2000年代から取り組みが始まった。
父親の戸籍が特定できてない2世の国籍取得は非常に困難だ。「戦時中、あらゆる資料が失われた。証人を探そうにも、証人は平均年齢80歳を超える2世より年上なわけで、とうに亡くなっている」。本人は「母から父が日本人だったと聞いた」という記憶や、父の名の一部しか知らない例も多い。
だがエスコビリャ会長は希望を失わない。
「3度目の裁判で就籍できた会員もいる。私が面接したペドロ・カワムラさんという方は亡くなる1カ月前に日本国籍を取得できた。ダバオ総領事館も現在の石川総領事の代になって以前にもまして協力的になったのもいい兆候だ」。この5月に83歳を迎える同会長は、落ち着きと力強さのある口調で語った。(竹下友章)