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清水展名誉教授が逝去 フィリピンに寄り添い半世紀

2025/2/28 社会
故・清水展名誉教授=生前に本人提供

約半世紀にわたり比をフィールドに日本の文化人類学の発展をけん引してきた清水展・京大名誉教授が逝去

約半世紀にわたりフィリピンをフィールドに調査を行い、日本の文化人類学をリードしてきた京都大学の清水展(しみず・ひろむ)名誉教授が22日に逝去した。73歳だった。27日に葬儀が営まれた。清水名誉教授はその研究生活の中で、ピナトゥボ火山噴火前後のアエタ族の暮らしの変容を追った研究や、グローバル化の中で市場経済を「飼いならし」ながら北ルソンの世界遺産に暮らすイフガオ族の生活の研究を通じ、現地の人々の声に耳を傾け誠実に応える「応答する人類学」を提唱、実践してきた。2017年にはイフガオ族に関する研究書「草の根グローバリゼーション」(2013)により、国内の学術賞で最も権威ある日本学士院賞を受賞。2024年秋の叙勲では、社会や公共に功労のあった人物に授与される瑞宝中綬章を受章した。 

 教え子のみならず、多くの比日の研究者・識者に影響を与えてきた清水名誉教授。両国から突然の死を惜しむ声が上がった。(竹下友章)

 ▽「人々から学び、共に生きた」 東京外国語大・日下渉教授

 フィリピン研究をけん引してきた文化人類学者の清水展先生(京都大学名誉教授)が、2025年2月22日の朝に逝去された。間質性肺炎を患って酸素ボンベを引きずりながらも、なおフィリピンへの調査旅行、次なる著書の執筆、遺作となった『アエタ──灰のなかの未来』の英訳を計画しているさなかだった。

 清水先生は、自身や他者、研究を計画的に管理したり、頭だけを使って外側からフィリピンを分析する人ではなかった。むしろ、偶発的な出来事や縁に巻き込まれることを積極的に受け入れ、敬意をもって現地の人々を内在的に理解し、彼らの活動に伴走しつつ、「応答」しようとしてきた。40年にわたるアエタ族の研究では、ピナトゥボ山の大噴火で友人らが被災すると支援活動に奔走し、彼らの劇的な再生の過程を内側から描いた。イフガオ族の研究では、彼らの森林と文化の復興運動に参加しつつ、ローカルな文化実践がいかにグローバリゼーションの強大な力を飼い慣らしていけるのかを論じた。ピープル・パワー革命が生じると、いかに人々がカトリック教における殉教の物語のなかで政治現象を解釈し、自らの身を危険に晒して民主化闘争に身を投じたのか説明した。

 悔やまれるのは、自らの人生を通して日本、フィリピン、アメリカの関係を論じる最後の単著『おとんはマッカーサー』(仮題)が未完に終わったことである。清水先生は、米軍基地のある横須賀に生まれ育ち、街を闊歩する米兵とアメリカに反発すると同時に、映画や音楽といったアメリカの大衆文化に憧れた。文化人類学を専攻したのは、そうしたアメリカの影響力から自らを解放し、自由になるためだったという。彼によれば、戦後の日本とフィリピンは、戦争の加害者と被害者、先進国と新興国というだけでなく、ともにアメリカの暴力によって生み出され、その影のもとで親米的に飼い慣らされた「アジアの異母キョウダイ」でもある。そして、フィリピンの苦しみ、尊厳と自由の希求から私たちは多くを学んでいけるというのである。

 清水先生は、日本人が集まってフィリピンの悪口を言ったり、研究者がフィリピンの欠点をあげつらって業績を積んだりするのを嫌った。むしろ、フィリピンで出会った人々から学び、共に生きながら応答し、自分自身を解放していくことを大切にした。マニラでバンド演奏に身をゆだねて踊りつつ、「だって、その方が人生楽しいじゃん」とビールを片手に笑っていた姿が思い出される。

 ▽「行動する学者だった」 ジャーナリスト・大野拓司氏 元朝日新聞マニラ支局長

 同じ時代に同じ空気を吸った親しい友が、突然、逝ってしまうほど、寂しく、悲しく、残念なことはない。

 私たちが初めて出逢ったのは、50年前のマニラだった。清水さんは東大大学院で文化人類学を専攻する学徒で、研究のフィールドをどこにするか模索していた。いつもポケットにメモ帳をもち、何でも書きとめていたのを私は覚えている。「ほんとうは初め、中国を研究対象にしたかったけど、フィリピンに来て『応用問題』のようなヒネリが入った奥深さに触れてのめり込んだ」。後年、問わず語りに、そんなふうに言っていた。

 まだ電車が上を走っていないころのタフト通りと、サンアンドレスの角に、小さな飲み屋があった。私たちはその店を勝手に「かどや」と呼び、都合が合えば、よく落ち合った。マニラ市の古参職員や引退した歯医者さん、怪しげな保険会社員、マカオから移住してきたというおじさんらが常連客で、わたしたちは彼らが明かしてくれる「社会の裏話」を楽しんだ。そうした折の、清水さんの話の聞き出し方は秀逸で、相手もついついノッテくるのだ。

 大いに飲み、大いに語り合った。それが今も脳裏の片隅にこびりついているらしく、ふとした折に思い出す。

 清水さんが卓越した文化人類学者であったことは、誰もが認めるところ。彼の真骨頂は「行動する学者」だったこと。フィールドを歩き、寝泊まりし、観察し、土地の人たちの話に耳を傾けた。そして何より、現場を愛した。

 ▽「父親のような存在」 マイケル・パンテ博士 「フィリピン研究」編集長

 清水先生の指導がなければ、私は京都大学の大学院を生き延びることはできなかった。先生は単なる論文指導教員以上の存在だった。それどころか、博士号取得までの浮き沈みの中、私を導いてくれた父親のような存在だった。先生は、私が論文を書く際に直面するであろう困難をすべて予測し、困難な時期に的確なアドバイスをくれた。

 先生は、私が京都での短い滞在を最大限に活用できるように配慮してくれた。日本在住の学者を紹介してくれたり、私のテーマに関連する珍しい文献を教えてくれたり、さらには、たまには休憩して地元の神社や観光地を楽しむことも忘れてはいけないと教えてくれた。先生は自然をこよなく愛し、京都でもバギオでも山登りに出かけた。また、バギオの芸術家からサンバレス州のアエタ族、さらにはマニラの活動家に至るまで、フィリピン社会をこよなく愛していた。

 私の論文のテーマは歴史に関するものだったが、フィリピンの人類学における先生の専門知識は、フィリピンの都市と都市化に関する私の研究を社会全体の中に位置づけて理解することを助けてくれた。先生の死は、多くの人に痛切に惜しまれるだろう。

 ▽徹底した「フィリピニスト」 カールイアン・チェンチュア博士 フィリピン大アジアンセンター

 2月23日の朝、寺田勇文先生から清水展先生の訃報を受け取った。悲しみを感じたが、寺田先生には、日本におけるフィリピン研究の世代交代のようにも感じると返信した。清水先生は、他の多くの日本人フィリピン研究者と同様、ピナトゥボ地域のアエタやコルディリェラ山脈のイフガオのフィールドに深く浸り、最後の著書『アエタ──灰のなかの未来』を上梓(じょうし)した。最近のフィリピン研究学会で、フィリピンの学者たちが、日本人学者によるフィリピンに関する優れた研究を認めて私に話しかけ、「ほとんどが日本語で書かれているのは恥だ」と言った。私は「それなら、なぜ日本語を勉強しないのか」と答えたかった。

 日本のフィリピン人研究者のもう一つの典型的な行動は、自分のフィールドにどっぷり浸ることを通じて、ただフィリピン人と友人になるだけでなく、かれらを家族と扱うことだ。これは、彼らを支援する道につながる。清水先生も例に漏れず、ピナツボのアエタのためのNGO支援プログラムの策定に尽力した。

 清水先生の訃報に接し、私は京都大学東南アジア研究所のインタビュー動画を共有した。そこでは、清水先生が、アメリカにもつアンビバレントな思いを説明し、フィリピンの植民地時代の経験に光を当てながら、米国中心主義から自由になる積極的な取り組みを説明している。

 どこまでも徹底した「フィリピニスト」だった清水先生を、私たちはこれからも忘れない。

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