Logo

31 日 マニラ

31°C22°C
両替レート
¥10,000=P3,730
$100=P5,820

31 日 マニラ

31°C22°C
両替レート
¥10,000=P3,730
$100=P5,820

マンガ編集者の原点 Vol.15「ニュクスの角灯」「アマゾネス・キス」の中川敦

2025/1/31 日本エンタメ

マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズだ。今回はリイド社にてトーチの編集長を務める中川敦氏が登場。2014年8月にスタートし、2024年に創刊10周年を迎えたトーチにて、実兄である中川学の「くも漫。」、ドリヤス工場「有名すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。」シリーズなど初期のヒット作を手がけ、さらに高浜寛や意志強ナツ子、川勝徳重、齋藤潤一郎、赤瀬由里子、大山海、まどめクレテック、ウルバノヴィチ香苗、坂上暁仁など、個性豊かな作家たちを多数担当している編集者だ。まるでマンガのような運命のいたずらから、30代でマンガ編集未経験からリイド社に入社し、さいとう・たかをやみなもと太郎の謦咳に接し、現在に至る。波乱万丈の編集者人生に肉薄した。

マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズだ。

今回はリイド社にてトーチの編集長を務める中川敦氏が登場。2014年8月にスタートし、2024年に創刊10周年を迎えたトーチにて、実兄である中川学の「くも漫。」、ドリヤス工場「有名すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。」シリーズなど初期のヒット作を手がけ、さらに高浜寛意志強ナツ子、川勝徳重、齋藤潤一郎、赤瀬由里子、大山海、まどめクレテック、ウルバノヴィチ香苗、坂上暁仁など、個性豊かな作家たちを多数担当している編集者だ。まるでマンガのような運命のいたずらから、30代でマンガ編集未経験からリイド社に入社し、さいとう・たかをみなもと太郎の謦咳に接し、現在に至る。波乱万丈の編集者人生に肉薄した。

取材・文 / 的場容子

マンガ編集者の原点 Vol.15「くも漫。」「アマゾネス・キス」の中川敦
すべての画像を見る(全8件)

人間より家畜のほうが多い村に流れ着くマンガたち

トーチを率いる中川氏は、北海道は十勝・中札内村出身。故郷は「人間より家畜のほうが多い村だった」という。

「牧畜と畑作の村で、ジャガイモ、小麦、枝豆なんかが主要農産物。いわゆるカルチャーみたいなものが本当にない土地でした。車で30~40分行ったところに帯広市があって、そこから兄とか従姉妹とか上の世代がポツポツもたらしてくれるものを手当たり次第に見たり読んだり。だから、その作品がどういう位置づけで発信されていて、どんな評価をされている作品なのかがまったくわからないまま、手元にあるものをただ、夢中で見たり読んだりするという環境でした」

「百年の孤独」(ガブリエル・ガルシア=マルケス)を引き合いに出し、「『村に流れ着いてくるものを『これは何だ?』みたいな感じで体験していた」と振り返る。マンガの読み方も王道とは言えない。例えば、コロコロコミックやジャンプあたりから読み始め、サンデーやマガジン、チャンピオンに進んでいく……といった体系立った読み方ではなく、混沌としていた。

「マンガは、たまに歯医者とかで帯広に連れて行かれたときに、帯広駅の本屋にあるもの、という感じでした。もっと続きを読みたいなと思ったのは『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)。並行してCLAMPの作品を友達の姉ちゃんが仕入れてきてたり、『Dr.スランプ』(鳥山明)などのジャンプ作品とか、『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ)、『魍魎戦記MADARA』(田島昭宇)とか。今思えば、いわゆるオタクカルチャーっぽいマンガも並行して家にあって、それもどういう人たちがどういう楽しみ方をしているのか、文脈もわからずに全部読んでいました。

時代的には、ジャンプが600万部突破!みたいなヤバい時期に、小学6年生~中学生くらい。マンガに限らず、田中芳樹さんの『創竜伝』『アルスラーン戦記』、宗田理さんの『ぼくらの七日間戦争』とか読んだり。音楽は、なぜか『スーパーユーロビート』シリーズに夢中でした。『はだしのゲン』とか『ナウシカ』を読んで人類の罪深さに頭を抱えつつ、ユーロビートをごりごり聴いてる……みたいなハードな感じでしたね」

高校は帯広市の難関進学校に学区外から入学するも、すぐに授業には出なくなった。

「親元を離れて帯広市内で下宿していたんですが、みるみるうちに成績が落ちて。同学年が400人と少しいて、入ったときは上から10番くらいの成績だったのに、卒業するときには400番台(笑)。

バレーボール部に入っていて部活は面白かったので、夕方、部活が始まる頃に登校していました。それ以外は下宿の裏の喫茶店でマンガを読んでいましたね。当時は『AKIRA』(大友克洋)とか『MASTERキートン』(浦沢直樹/勝鹿北星・長崎尚志)、『寄生獣』(岩明均)、つげ義春とかが置いてあって、青年マンガって面白いなと思って読んでいたのが高校時代です」

高校卒業後、札幌で1年浪人生活を送り、東京学芸大学の教育学部に入学。東京というカルチャーの中心地に強烈な憧れがあったかと思いきや、そこまでのものではなかったという。

「村にいたときは、世の中には多種多様な職業があることを全然わかっていなくて、自分が将来仕事に就くとしたら学校の先生しか想像できませんでした。ただ、大学は東京に行ったほうがいいのかなという漠然とした思いはあり、教育学部で国公立でと考えていたら、東京学芸大学という学校があることがわかり受験しました。今思うと、教育学部以外の学部や、私立大学という発想がそもそもなかった。つくづく何も知らなかったと思います」

心理学と文学、そしてマンガ

編集者を志したのは、大学の教育学部で専攻していた心理学の影響が強いという。

「特に僕が学んでいた分野は、被験者の言葉や行動を記録し、その統計から心の動きや状態を明らかにするというものだったのですが、統計や論理ではどうしても説明のつかないものもある。そこを引き受けてきたのが文学や哲学、芸術で、マンガも多分ここに含まれてくるのではないかと」

心理学と聞くと、ド文系の筆者はフロイトやユング、ラカンをイメージしてしまうが、中川氏が専攻した社会心理学は、統計を駆使する数学的なアプローチだった。

「実験して統計を取って、そのデータを解釈・考察して結論を出すというものです。すごく勉強になったけど大変でしたね。文系だと思って入ってみたら、『多変量解析と分散分析を筆算でできるようにならないと単位やらない!』みたいな感じで厳しかった。その分、科学的な考え方の基礎を学ばせてもらった手応えがありました。

ゼミの教官は社会心理学が専門の先生でしたが、印象的だったのは、先生ご本人が奥さんを亡くされたとき、悲しみが時間とともにどういう変化をしていくか、という記録を本にまとめていたんです。すごく深いところにある感情を、心理学者の眼差しで書いている。人間の割り切れなさや、感情がどこから来るのか、現実のこの厳しさとは一体?ということに向き合って言葉にした本で、学者ってすごいなと感じました」

教官の名は、相川充(あつし)。現在は東京学芸大学名誉教授で、専門書だけではなく、対人関係に関する一般著作も多数著している。中川氏が言及した本は「愛する人の死、そして癒されるまで:妻に先立たれた心理学者の悲嘆と癒し」(2001、大和出版)だった。

「先生の本を読んだときに、謙虚さというか、科学的に不確かなことを保留し本当のことをつぶさに見ていこうという姿勢に打たれました。想像だけで決めるのではなくて、観察したうえで論理を積み上げること、そしてそのプロセスの推進力となっているのが、個人の複雑で繊細な感情で……。この『個人の複雑で繊細な感情』は、つきつめると文学の範疇なのではないかと。当時、マンガに限らず、本もいろいろと読んでいましたが、心理学とのそうした接点も面白かったですね。ただ、先生とは当時そんなに親しくやりとりしていたわけではなかったので、先生は僕のことを覚えていないと思いますが」

まったく興味のない「軽自動車の専門誌」で得たことは

大学卒業後、2003年に新卒で立風書房に入社する。同社は1966年に学習研究社(学研)の子会社として設立された出版社。ある世代には、レモンコミックスの怪奇マンガシリーズや、ジャガーバックスの「日本妖怪図鑑」「世界妖怪図鑑」(佐藤有文)を出版していた会社、というとイメージが湧くかもしれない。ちなみに、筆者にとってはみつはしちかこ「小さな恋のものがたり」シリーズの出版社だ。

「立風書房はホラーマンガのレーベルがあったり、文芸だと池波正太郎や寺山修司の本を出しているなと思って入社したら、当時はすでにそうしたジャンルは商売として下火。モーター雑誌、つまり自動車やバイクの雑誌が看板の会社になっていたんですよね。僕は文学や哲学、心理学に興味があって、書籍のほうに憧れて入ったのに、書籍の部署には1人しかいなくて、その先輩ももう退職します、みたいな感じで……。

新卒は僕を含めて3人入社し、みんな実用雑誌に配属。内定もらったときには免許も持っていないのに、僕が配属されたのは軽自動車の専門誌でした。『免許取れないと内定取り消しだよ!』と言われ、取ろうとするも学科で何度も落ちて(笑)。というのも、『信号が青になったらそのまま進んでよい→マルかバツか』みたいな問題で、『論理的に考えて、信号が何色であっても次の瞬間に人や動物が飛び出してこないとは限らない、バツ!』とかってやると全部間違っているんです」

なんとか免許を取得し、軽自動車の専門誌・K-CARスペシャルで悪戦苦闘する日々が始まる。

「車を速くしたい人とカッコよくしたい人のためのパーツ情報なんかについて特集するんです。地方の走り屋とか、いわゆるヤンキーの車を撮影して、どこをどうカスタムしたかを聞いて記事にする。だから、月の半分以上が地方出張でした。正直、『嫌だな、ダサいな』と思っていましたけど、今思うとそのときの経験はすごく身になっていると思います。

自分にはまったく興味がもてないものでもすごく大事にしている人たちがいるって、頭では理解しているつもりでもちゃんと実感できていなかった。だけど地方に行き、写真撮って記事書いて、というのをずっとやっていると、『こういうことか』と思うわけです。どちらが多数派か少数派かという問題以前に、本や雑誌が売れているのは、読者のためにちゃんと情報提供して見たい写真を載せているからだと。就職するまでは “なんとなくカッコよくてイケてる感じの編集者”に憧れがありましたが、K-CARスペシャルでの仕事を通して、職務上の関心が『自分がイケてる感じに仕上がること』から『誰のために何かを為すか』に移っていきました」

32歳の新人マンガ編集者が、さいとう・たかを、みなもと太郎を担当

その後、立風書房は2004年に解散、学習研究社(現・学研ホールディングス)に吸収合併された。中川氏はほどなくグラビア誌・BOMB(ボム)に異動になり、のちに退職。その後篠田博之氏率いる創出版で半年ほど働き、2011年にリイド社の中途採用面接を受ける。

中川氏が志望したのはMen’s SPIDER(メンズスパイダー)という「Vホス系」ファッション誌の編集部。前職で培った地方取材の経験が活かせると思い応募した。無事採用決定の電話をもらったものの、直後に問題発覚。人事担当者の間違いで、採用が決まったのは最終面接に残ったもう1人のほうだったのだ。事情を知った先代社長・斉藤發司氏(さいとう・たかをの兄)の「ほんなら2人採るしかないやろ!」という鶴の一声で、無事中川氏も採用されることになるが、Men’s SPIDERで募集していたのは1人だったため、中川氏はリイド社の看板雑誌であるコミック乱預かりとなった。

「そんな経緯なので、僕がコミック乱に入ることは編集長含め全員が寝耳に水(笑)。マンガ編集も初めてだし、社内の誰からもまったく歓迎されてなかったです」

2011年10月、中川氏は32歳。ここに来てようやく、新人マンガ編集者としてのキャリアがスタートする。運命のいたずらのようにマンガ編集の道を歩みはじめ、コミック乱で土光てつみ、みなもと太郎、そしてさいとう・たかをの連載を担当するようになる。土光は、「ザ・代紋」「どチンピラ」(原作:原麻紀夫)「ザ・首領(ドン)」などの代表作がある劇画作家で、中川氏は「二代目 雲盗り暫平」(原作:さいとう・たかを)を担当することになった。

「編集者として最初に打ち合わせしたのも土光先生でした。あの頃、新人なのに『このコマこうしたほうがいいんじゃないですか』とか『ここ、わからないです』とか言っていたんですが、ふとした瞬間に『本当に自分の思う通りに直したら正解なのかな?』と思うことがありました。別に土光先生が直すのを嫌がった、とかではないのですが、もしかしたら自分が“仕事してる感”がほしいだけで言ってるんじゃないのかな、と思って。実は作品のためにも作家のためにも、読者のためにもなんにもなっていないことに気づきました」

編集者であれば一度は取り憑かれる悩みではないだろうか。何を基準に、自分の感性をどう信じればいいのかわからなくなる。中川氏は、そうした意味でも、みなもととさいとうを同時に担当したことが本当にラッキーだったと語る。

「風雲児たち 幕末編」1巻 (c)みなもと太郎/リイド社

みなもとは1947年生まれのマンガ家で、1979年から連載を開始した「風雲児たち」で歴史ギャグマンガとしての作風を確立させ、「風雲児たち 幕末編」はコミック乱の看板作品となった。さいとうは言わずとしれた「ゴルゴ13」の作者で、リイド社の前身は1960年に創業した劇画製作スタジオ「さいとう・プロダクション」の出版事業部である。劇画作品の代名詞でもあり、超一流スナイパーであるゴルゴ13の活躍を描いた「ゴルゴ13」をはじめとした作品は国内外で唯一無二の評価を得ている。みなもともさいとうも、2021年に惜しまれながら逝去した。

「さいとう先生は王道を行く作家というか、みんなが思う『王道』そのものを切り拓いてくださった方。若い作家と話していて行き詰まったときなど、先生の作品を参照すれば『こうすればいいのか』あるいは『逆にこうしてみよう』という道筋が必ず見えてきます。

みなもと先生は、商業マンガの第一線を張りながら、マンガの自由と多様性の砦となってくださった方。先生が『私はネームをやらないので』とおっしゃるとき、同時に『なんでマンガ描くのに許可がいるんだ。編集者や出版社の許可がないとマンガ家はマンガを描いちゃいけないのか?』という声が聞こえる気がしました。

このおふたりのおかげで、私はマンガにとって王道とオルタナティブは車の両輪のようなもので、どちらも欠くことのできないものだと学ぶことができた。そのことを大変自慢に思っています」

中川氏が担当したさいとう作品は「鬼平犯科帳」。みなもと作品は「風雲児たち 幕末編」であった。新人時代に2人のレジェンド作家の謦咳に接した経験は、その後の人生で数多くのマンガを読み、さまざまな判断を下していくための基準を作ったことだろう。まさに、中川氏の編集者人生を照らす「トーチ」(灯火)になったのかもしれない。

「鬼平犯科帳」1巻 (c)さいとう・たかを/さいとう・プロ/池波正太郎/リイド社

「さいとう先生のお仕事場には紫綬褒章の賞状などが飾られていて、それを眺めながら語ってくださったことがありました。『かつてお上(かみ)は、我々の劇画を低俗や言うて目の敵にしとったんや。それが、テロリストの話(ゴルゴ13)を50年描き続けたら、お上のほうから表彰させてくれ、言うてくるんや。笑うやろ』って。頼りにできる権威とか権力が何もないところから、ただひたすら自分たちの劇画で大衆を味方につけてやってきた、という自負。いつ思い返しても胸が熱くなります」

トーチの始まり、ドリヤス工場と中川学

コミック乱でベテラン作家たちを担当しながら、マンガ編集者としてのキャリアを積む中川氏。入社から3年後の2014年、webマンガ媒体・トーチがスタートする。トーチは、当時リイド社に在籍していた関谷武裕氏と中村康司氏が、社の新規プロジェクトとして立案。コミック乱に在籍していた中川氏が合流し、3人体制で始動したという。

「当時、リイド社には時代劇の雑誌しかなくて、想定読者は40~60代。トーチが生まれた背景には、編集者たちが自分たちと同世代に向けた現代ものもやりたいという気持ちが大きかったです。先代社長(發司氏)の『まあええやないか、投資や』という後押しを得て始まりました」

マンガ編集者として歩き始めて3年。この頃から、中川氏は企画を一から立ち上げるようになる。まずは高浜寛と山田参助に声をかけ、コミック乱で作品を依頼するように。一方、トーチで最初に立ち上げ、担当したのは、ドリヤス工場の「有名すぎる文学作品をだいたい10ページの漫画で読む。」と、実兄である中川学の「くも漫。」であった。

「有名すぎる文学作品をだいたい10ページの漫画で読む。」 (c)ドリヤス工場/トーチweb

「サイトの立ち上げ準備にだいたい1年半、立ち上がってから単行本が出始めるまで1年ぐらいを費やすことになるんですが、その間ずっと社内から『絶対うまくいかない』『さいとう先生が稼いでくださったお金を無駄遣いするな』みたいな冷ややかな眼差しをビシビシ感じていました(笑)。だけど本を出したら売れて、『ほら、売れたじゃないか!』と。自分と作家さんを信じてやっていいんだとわかった初期の作品です。

何か新しいものに取り組むときに『これ売れるのか?大丈夫か?』と慎重になるのは編集部も営業部も同じなんですが、『実際にやったら大丈夫だった』『損はしなかった!』という具体的な実績の積み重ねでここまで来ました。そういう意味でも初期作品のヒットが今のトーチの礎を築いてくれたと常々思います」

ドリヤス工場は、当時「水木しげるの画風でパロディをやる作家がいる!」と出版界隈で話題になっていた“時の人”だった。「有名すぎる~」は、その名の通り、太宰治「人間失格」やカフカの「変身」など、古今東西の著名な古典を10ページほどの短編に落とし込んだアンソロジーだ。もちろん水木しげる風で。「史上最も肩の凝らない文学ガイド」と銘打った同作ができるまでの経緯を語ってくれた。

「ドリヤスさんの同人マンガが本当に面白くて。『新世紀エヴァンゲリオン』とか『けいおん!』とかの人気作を『要するにこういう話です』という感じで10ページ前後で描かれていて、その強引さ・的確さ・ユーモアが見事で。絵柄もそうですし、何より構成力に唸りました。何かの要約がちゃんと面白いものになるには、筋や間の勘所を押さえるための緻密な作業を必要とするわけで、これはすごいことをやっているぞと思いました。それで『この人が古典をやったら…』と思ったんです。」

一方、実兄の中川学は「くも漫。」を連載。自身が29歳のときに風俗店でくも膜下出血を発症し、九死に一生を得た実体験を、笑いあり、涙ありでマンガ化したドキュメンタリー作品だ。同作には家族として中川氏も登場するのみならず、手術中の出来事を記録した日記や1ページマンガも収録されており、ほかにはないマンガ家と編集者とのタッグが味わえる。マンガ家の兄と編集者の弟が作品づくりをする様子は、まるでさいとうと、リイド社の初代社長であるさいとう氏の兄・斉藤發司氏の関係を彷彿とさせる。そう告げると、「初めて言われましたが、自分でもそういえばと思いました」。兄弟という関係性が作品づくりにどう影響するかと尋ねたところ、意外にもほかの作品との差はないという。

「くも漫。」 (c)中川学/トーチweb

「マンガを作るのは全部難しいので、担当した作家が兄だから面白いとか難しいというのはないですね。兄弟ゆえのやりやすさ、やりづらさみたいなのも考えたことがなくて。『売りたい。売れなきゃ』みたいな難しさは兄弟だろうが、兄弟じゃなかろうが何も変わらないと思います」

「恐れるならやるな。やるなら恐れるな」

創刊時も今も、ほかでは絶対に読めない作風の個性的な作品が次々と誕生しているトーチ。決して万人受けするマンガが多数派ではなく、誤解を恐れずに言えば、サブカル感満載の尖り具合。ガロやCOMが好きな読者にはたまらない聖地だ。

これまで媒体の危機はなかったのかと聞くと「ずっとピンチですよ」。特に創刊時は、サイトのトップページに常時「トーチの赤字額」が1円単位で公開されていて、誰でも見ることができたため、読者も危機感を共有することができ、その赤裸々さが斬新で話題だった。

「あれ、面白かったですよね。関谷さんのアイデアで、僕も好きだったんですけど、わりとすぐ掲載するのをやめました。というのも、先代の社長が見て『恥ずかしいことすな!』と(笑)。面白かったと言ってくれる人が今でもいっぱいいます。」

現在、トーチの編集者は中川氏を入れて6名。とくにピンチだったのは、ごそっと編集者が抜けてしまったタイミングだという。

「2021年から2022年にかけて、一緒にやってきた編集者がみんな転職して。編集者は僕と中山望くんの2人だけになったときがありました。同時期に、みなもと先生が亡くなり、さいとう先生が亡くなり、しかもコロナ禍で……『ああ、もうここまでか』と本当に思いました」

昨年の創刊10周年を経て、現在は新体制として本格的な再出発の時期だという。

「新しく入ってきた編集部員が立ち上げた作品も増えてきて、それが少しずつ本になっています。『いっぱい本を作っていっぱい稼ごう』という話を常にしています」

現在、マンガを出版する会社の多くがWebやアプリでマンガを公開できる場を持っている。そして、インターネット上で作品を掲載したあとは、紙での出版は見送って電子書籍だけで発売するケースも多々ある。あるいは、連載だけで終了するパターンも。しかし、トーチで連載した作品は、基本的には紙で出版しているという。インディーズ色が強い作品も多いが、トーチに掲載する/しない、つまりは出版の是非はどう判断しているのか聞くと、「担当編集の気合いが入っているかどうか」という意外な答え。

「どの作品も『売れろ、売れるはずだ、売れなきゃ嘘だろ』という担当編集者の気合いがなければ世に送り出すことができません。これまでのトーチのベストセラーを振り返ってみても、上司も同僚も他部署も評論家も読者もみんなニコニコ大歓迎、連載前からいいね万超え!……みたいな作品は1つもありません。すべての作品が、うまくいく保障が何もない中で『誰がなんと言おうと絶対世に出す! 当てる!』という担当編集者の気合いとともに最初の一歩を踏み出した。だからトーチに掲載する/しない、は担当編集者の肚で決まるといっていいと思います。私は各担当編集者の肚が本当に固まっているどうかを見極める、そんな感じです。

僕、編集部員にたまに言うんですけど、モンゴルのことわざで『恐れるならやるな。やるなら恐れるな』というのがあるんですね。やるならちゃんと肚をつくっておけ、ということです。そして、編集者である限りよい作家・作品に出会ったときに『やらない』選択肢はないので、要するに肚をつくっておけ、ということです」

意志強ナツ子の成長

絵にテーマ、ストーリー。個性という言葉では表しきれないほど、トーチの執筆陣はそれぞれが粒立った特色をもつ作家たちだ。中でも、筆者が個人的にトーチのカラーの1つを象徴するような存在だと感じているのが、2014年にデビューした意志強ナツ子。トーチからはこれまでにデビュー単行本の「魔術師A」や「アマゾネス・キス」を出版。例えば、「アマゾネス・キス」は、アマゾン純子を頂点とする自己啓発団体「超感覚知覚トレーニングジム」を舞台に、さまざまな人物が自己実現にもがく姿を描いた話だ。性的欲求や恋愛感情、真理の追求、承認欲求などが渾然一体として描写されており、「こんなことを描いたら恥ずかしいのでは?」「気持ち悪いと思われるのでは?」といった暗黙のボーダーを軽々と飛び越えてくる、人類にとって歴史的な作品だと筆者は考えている。

「意志強さんとの出会いは2014年、コミティアの出張編集部でした。『りゅうのすけくん』という一種のBL作品?を見せてくださったのですが一読して『やだな…』と思いました。意志強さんによれば、僕は実際には『下品だなあ』と言ったらしいです。もう1作見せてくれたのは、『たましい』という、主人公がトイレ掃除するという内容のマンガでした。もう、何が一体彼女にこれらを描かせたのか?と気になってくる。捨て置けないわけです。

この最初の持ち込みのときから、この人は何か『真の美』みたいなものを追い求めているのではないか、という予感がありました。一緒に仕事をするようになってその予感が確信に変わっていくのですが、特に『アマゾネス・キス』などはネームを受け取る度に『ドストエフスキーじゃん!』とか『ニーチェかっ!』とよく独りごちていました。」

「アマゾネス・キス」1巻 (c)意志強ナツ子/トーチweb

意志強の作品は、100万人に受ける作品ではないかもしれない。だが、ここにしかないもの、意志強にしか生み出せないものが間違いなくあると感じさせ、目が離せないのだ。

「意志強さんは、持ち込み以来自分自身を鍛え、努力を惜しまず、たくましく作家になっていきました。そのプロセスを僕は商業作家としての成長の1つのモデルとして考えています。

肝の1つは、メジャーを目指すことを恥ずかしがらないこと。ブログでも描きましたが、最初に意志強さんが見せてくれたキャラクターデザインは、いわゆる『インディーズ感』が濃いものでした。その後、意志強さんは絵柄を変える努力をされました。これはどういうことかというと、根本的に自分の作品を考え直すということです。それをまったくいとわない。デビュー作となった『女神』の主人公ありさの絵は、すごい数のパターンを描いて送ってくれました。

意志強さんは、編集者は作家と『向き合う』のではなくて、『同じ方向を向く』のがいいと教えてくれた作家さんです。向き合っていると、2人の中でしか変化が起きないのですが、同じ方向を向いて『あそこが目指すところですよね』みたいな話ができると、前に進むんですよ」

天才がいないことの感動を教えてくれる作家たち

生まれたての若い才能からアブラの乗った中堅、劇画のレジェンドまで、さまざまな作家を担当してきた中川氏。「天才を実感した経験はあるか」と尋ねたところ、「ない」という言葉とともに、印象的な言葉が返ってきた。

「トーチの作家は、天才がいないことの感動を教えてくれます。マンガ家はみんな、さいとう先生もみなもと先生も土光先生も、高浜さんや山田さんももちろん、必ず『勉強して、考えて、手を動かす』ことで作品を作っています。マンガって、天才的なインスピレーションがパーンとひらめいただけでできるものじゃない。手を動かして動かして、考えて、動かして──それ以外にマンガを描く手段ってない。

天才が1人もいないことの感動というのが、僕がトーチの作家たちを見ていて思うところです。意志強さんも同じで、自分が天才じゃないから神に祈りを捧げて一生懸命考えて、自分の力でなんとかするんだという意志の力を感じます」

ここで名前が出た高浜もまた、トーチを代表する作家のひとりである。BD(フランスのマンガ、バンド・デシネ)をはじめとした欧米の味わいを感じさせる画風と、緻密な時代考証、歴史の知識に基づいた唯一無二のテーマとストーリーで、国内外に多くのファンを獲得している作家である。特に中川が担当し、コミック乱で2015年から2019年まで連載していた「ニュクスの角灯」は高浜に縁の深い長崎と、ベル・エポック期のパリを舞台にしたアンティーク道具屋をめぐるお話で、2020年に手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞するなど、大きな反響を呼んだ。

「ニュクスの角灯」1巻 (c)高浜寛/トーチweb

「高浜さんもまたヤバい人で、神がかっていますよね。今は天草に住んでいて、犬5頭猫7匹ヤギ4頭、鶏いっぱいと暮らしています。トーチで連載中の『獅子と牡丹』という作品のモチーフになっている天草四郎の埋蔵金がある場所も、高浜さんはすでにかなりのところまで調べ上げたっぽいです」

驚愕の話が飛び出してきた。ある事情から掘り返して検証することはできないが、確信をもって場所の目星をつけているらしい。「獅子と牡丹」は、天草で暮らす青年・電(あきら)が主人公。ろくでなしの父が多額の借金を抱えて失踪したことをきっかけに、天草四郎の埋蔵金さがしに片足を突っ込むようになって──というストーリーだ。新エピソードが更新されるタイミングで、トーチで公開されている高浜お手製の宝探しの地図も更新されていく、という仕掛けもあり、現実とのリンクにワクワクする作品だ。

「高浜さん、『獅子と牡丹』執筆にあたって日本のキリシタン文化について独自取材を続けてきたんですが、その驚くべき成果に、ローマ・カトリック教会の総本山であるヴァチカンも注目してまして……。大阪万博のバチカンパビリオンの親善大使に任命されたり、なんかすごいことになっています」

マンガ家の枠におさまならない才気──いや、むしろマンガ家だからこそ、作品のために、大胆で斬新なリサーチが可能なのかもしれない。

「高浜さんは能を習っているんです。ストーリーの作り方って、ハリウッドにある脚本術とかロシアフォルマリズムとかが参照されがちですが、実は能にすべて型があって、ということもおっしゃっていて、面白いですよ。例え僕らに未来がないとしても、過去を訪ねればいろんなものが残されているし、歴史がある。能もふくめて、死んでいった人たちの声を聞く手段はいっぱいあるはずだと。『獅子と牡丹』ではそこにフォーカスしようとしているのですが、シンプルにトレジャーハンティングとして面白いお話なので、ぜひそのあたりも楽しんでほしいです。

「獅子と牡丹」1巻 (c)高浜寛/トーチweb

高浜さんって、現実の見立てがすごく地に足がついていると思います。『厳しくてままならない現実はさておき……』みたいな作品が1つもなくて、どの作品も『きっついよね現実!』みたいなところから始まっています。トーチの作家はそういう人ばかりですね。僕がリアリズムという言葉を使うのはそういう意味で、現実の社会問題を扱っているからリアルとかファンタジーだから非現実的とかではなく、今、自分たちが生きているこの現実をどう見立てるか、というところから作品を立ち上げているという意味でのリアリズムだなと思います」

私たちは本を作り続けます

マンガ編集者になって14年あまり。編集者の心得について聞いてみると、「難しいなあ」とうめきながらも、こう答えてくれた。

「思い出すのは、先輩編集の言葉です。僕がコミック乱に入ったときの編集長で、もう定年退職された林さんという方がぽろっと言っていたのは『マンガの編集なんてね、簡単だよ。だって、2つしかやることないんだから。1つはいい作家を連れてくること。もう1つはいい作家を育てること。それだけ』。

だけど、連れてくるって、育てるってどういうことか、そもそもいい作家って何?というのをずっと考え続けることになるんですよね。読み切り1回描いてもらって、原稿料は1枚10万円出します。はい描きました。ってこれ、連れてきたことになるの?とか。あるいは、新人が大ヒット作を1本ものにして、そのあと燃え尽きて描けなくなった。それって育てたことになるの?とか。

たった2つと簡単そうに言っているけど難しい、我々がやることの本質なんだろうなと思います。編集者の心得って、その言葉に尽きるのかな。そこに安易に正解を出さないように、作家と一緒に仕事しながら自分なりに考え続けることが、編集者の仕事になるのではと思います」

そして、編集者として叶えたい夢は、やはり部数のことだ。

「作品全部が100万部売れてほしいですよね。夢を自由に話していいのであれば、そういうふうに思います。うちからマンガを出せば作家はまず食うには困らない、っていうふうにしたい、というかしなければならない。創刊当時からすると原稿料のベースは倍以上になりましたがそれでも全然足りていないので、編集部はもっとがんばらないといけません」

繰り返しとなるが、「灯火、かがり火」という意味の「トーチ」。きっと、人生に迷い、あがく人のともしびになっていることだろう。読者のみならず、作家にとっても、きっと。2024年に10周年を迎えたトーチが今後目指すのは、「混沌」。

「作品がいろいろあって、雑多。混沌としていることがトーチのカラーだと思う。何か指針を1つ立てて、『こっちの方向に!』みたいになると、多分あっという間に大手にやられる(笑)。まずは編集者が自分たちの強みを忘れないようにしたいと思います。作家も編集者も、それぞれが個性を100%以上発揮しないと我々は生きていけないと思う。

本を作るということに尽きると思います。我々編集者は、なんか作らないとダメです。編集者って、人間関係とかコネクションとか『っぽさ』みたいなところで乗り切ろうと思えばなんとかなるし、それも1つの才能でもあるんですが、我々のやることはそことは違って、物を作る。じゃあ何作る?って言ったら本だろうと思います。

私たちは本を作ります。それが紙であっても電子書籍であっても、とにかく本を作るためにどうするかということを、これからもずっと考え続けると思います」

中川敦(ナカガワアツシ)

1979年、北海道生まれ。東京学芸大学教育学部卒業後、2003年に立風書房入社。雑誌編集者として勤務したのち、2011年10月にリイド社に入社する。2014年に会社のトーチwebを創刊し、現在は編集長を務める。担当作家に、高浜寛、意志強ナツ子、川勝徳重、齋藤潤一郎、赤瀬由里子、大山海、まどめクレテック、ウルバノヴィチ香苗、坂上暁仁、堀北カモメ、ちほちほ、綿本おふとんら多数。

提供元:コミックナタリー

おすすめ記事

King & Prince高橋海人、山田洋次×石井ふく子の新作ドラマ「わが家は楽し」出演

2025/1/31 日本エンタメ 無料
無料

EBiDAN NEXT発の期間限定2チームLast Forever&BOYZTERIOSが本日新曲を同時リリース

2025/1/31 日本エンタメ 無料
無料

HANAプレデビュー曲「Drop」で強い意志を表現、今夜グループ初のYouTube生配信

2025/1/31 日本エンタメ 無料
無料

WEST.ニューアルバム「A.H.O. -Audio Hang Out-」発売決定、9都市アリーナツアーへ

2025/1/31 日本エンタメ 無料
無料

TAAF2025作品賞は「ルックバック」「フリーレン」、アニメファン賞は「鬼太郎誕生」

2025/1/31 日本エンタメ 無料
無料

IDOLiSH7が映画「ショウタイムセブン」の応援に参戦、阿部寛演じる主人公と3ショット

2025/1/31 日本エンタメ 無料
無料