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1月16日のまにら新聞から

閣僚候補を選挙の目玉に 大統領選

[ 948字|2022.1.16|社会 (society)|新聞論調 ]

 1985年から86年にかけての大統領選の選挙期間中、マルコス大統領は、観衆に向かって、しばしばフィリピン語で「コリー・アキノのスタッフは誰だ」と質問を投げかけた。暗殺されたベニグノ・アキノ・ジュニア上院議員の妻であるコリー・アキノ氏は、この選挙でマルコス氏の一騎打ちの相手だった。

 86年、コリー・アキノ氏はホテル・インターコンティネンタルで開催された集会で、国民に対し演説を行い、誰が彼女のアドバイザーだったのか発表した。そのグループは、ハーバードビジネススクールで教育を受けたベンゲット・コンソリデイティッド社のオンピン社長をはじめ、国内最大の金融業や製造業、インフラ企業などの会長やCEOらが含まれていた。

 これにマルコス氏は閉口した。彼の陣営が「ワラン・アラム(無知)の主婦」と見下していた女性が、国家の最優秀人材を多く抱え込んでいたからだ。一方、セサール・ビラタ首相兼財務相をはじめとする政権の経済財政担当者たちは驚かなかった。大多数の経済・財政の専門家がマルコス大統領の統治の質の低下に非常に幻滅していることをよく知っていたからだ。

 国民は、アキノ氏の演説と彼女のアドバイザー陣の質の高さに感銘を受けた。アドバイザーたちは、勝利の後、内閣の各部門を率いることになる。ホテル・インターコンチティンタルの聴衆は皆、オンピン社長がアキノ政権下で最初の財務相になることを予感し、大いに期待を寄せ、アキノ氏の勝利後、その期待は実現した。

 それから36年後の今日、状況は大きく変わっている。87年の新憲法で複数政党制が導入され、大統領選挙のたびに様々な政党が乱立する状況が生まれた。候補者の代理立候補、政党の合従連衡、候補者相乗りが盛んに行われるようになり、2大政党制時代に円滑に機能していた制度がほぼ完全に歪んでしまった。

 86年にアキノ氏が勝利したら誰が外務相、財務相、農務相などとして政権入りするか知ることができたように、国民は、6月30日以降にこの国の政治を動かすのはどんな人物か知っておく必要がある。実のところ、今度の大統領選の投票は、ダーツ盤にダーツを投げるようなものだ。この国には、もっと合理的なやり方があるはずだ。(13日・スタンダード、記者ルディ・ロメロ)

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