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4月11日のまにら新聞から

教員棟の歴史 比大ディリマン校火事

[ 711字|2016.4.11|社会 (society)|新聞論調 ]

 1960年代後半、ニエベス・ベニート・エピストーラ教授が米ハーバード大からフィリピン大ディリマン校に戻ったとき、彼女はまだ新築だった教員棟の最も好ましくない部屋をあてがわれた。トイレのすぐ横で、出入り口にも程近い。授業がある日には何百という人が部屋の前を通り過ぎていく。彼女は諦めの様子で静かに語った。「結構だわ。ここが火事になったら一番最初に避難できるのは私ね」。

 私は常々、この最も尊敬する心の師が、生徒と同校の行方を見通すことができる「予言者」だと思っていたが、教員棟に関しても同じだった。彼女がかつて学部長を務めた文芸部の施設は4月1日、炎に包まれた。

 教員棟は「学術の自由」の象徴であり、比大の「心臓」の一つだった。別に教員棟を神格化したい訳ではない。かつて、哲学部があった3階は悪名高かったものだ。「クワトロ・オア・クワルト(今日は無理?それとも部屋に行く?)」という比大用語が、精気みなぎる若い教員の欲望が、みずみずしい若者に向かった結果に由来するのかは定かではない。

 とはいえ、教員棟は多くの栄光の時代をくぐり抜けてきた。政治科学部は戒厳令下、「政府のイヌ」の格好の標的だった。左翼的だと見なされた教員は摘発された。私が同大に入学したのは73年だが、投獄を経験した教員たちが、彼らの同僚が抗議声明を印刷するための謄写機をどのように隠し続けたか話してくれたものだ。

 同大が次に新しい教員棟を建設する時、かつての教員棟の廊下を歩き慣れた「愛好家」の声に耳を傾けてほしい。歴史をつくり、国粋主義者と戦い、正義を守り続けた彼らを思い出してほしい。(5日・インクワイアラー、エリザベス・ロラルガ氏)

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