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10月12日のまにら新聞から

政治家の流儀 アロヨ前上院議員死去

[ 710字|2015.10.12|政治 (politics)|新聞論調 ]

 ジョーカー・アロヨ前上院議員に影響を受けた多くの関係者は、彼の死去を知ってかつての時代を懐かしむだろう。中でも印象的なのはフィリピン史上初の大統領弾劾裁判だ。

 それは15年前の2000年にさかのぼる。前上院議員は下院議員で構成される検察団の要として、略奪罪に問われたエストラダ元大統領に「こんな窃盗犯に国を任せることはできない」と厳しい弁舌を振るった。

 前上院議員の流儀。それは汚職を徹底追及することにある。

 マルコス独裁政権時代は、人権派弁護士として戒厳令の布告に異議を唱え、ベニグノ・アキノ元上院議員らの弁護を担当。マルコス元大統領の支配下にあった法廷で論争を巻き起こし、国軍兵士や治安維持部隊が巡回する街頭で行った演説では、政権批判を繰り返した。この姿勢が、アロヨ前上院議員のイメージとして多くの人々に定着した。 

 下院議員を3期務め、政界引退がちらついた時、彼は国会議員として一定の地位を築いていた。しかし、上院選立候補者の支持率調査では上位に食い込めなかった。それが覆ったのは弾劾裁判で検察団を率いた時であり、政治家として真っ直ぐな道を進んだからだった。

 上院議員時代も記憶に残っている。アキノ大統領を敵視していたことから、批判の的となったアロヨ前大統領支持にまわった。特にアキノ現政権発足時に「学生自治会」のようだとこき下ろしたのは忘れられない。

 1970年代、アロヨ前上院議員が政界に首を突っ込んだ時、独裁にあらがう野党議員を弁護したのがそもそもの出発点だった。以来40年、ポストマルコス時代をへてその卓越した業績があらためて目に浮かんでくるようだ。(9日・インクワイアラー)

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