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8月26日のまにら新聞から

新聞論調

[ 707字|2002.8.26|社会 (society)|新聞論調 ]

信念を伝えた帰国 ニノイが残したもの

 故ベニグノ・アキノ上院議員(愛称ニノイ)暗殺から十九年目の記念式典が二十一日にあった。だが、単なる式典として記憶にとどめるならば、英雄的な死を選択した彼の人生の意義は失われてしまう。

 ニノイは虚礼を好まなかったし、極めて人間的だった。失望して涙を流すことがあっても持ち前の楽観主義と勇気で乗り越えた。逆境をバネとして自分がベストを尽くせる状態へと導くことができた。戒厳令が布告された直後のマルコス政権下。死刑判決を受け投獄された時でさえ、自身に下された判決をネタにジョークを飛ばして仲間の政治囚を慰めた。

 彼は人に尽くすためには、人を理解することが必要だと早くから気付いていた。地元タルラック州のコンセプション町長、同州知事にそれぞれ史上最年少で当選。アロヨ大統領の父親、マカパガル大統領は政権を握ると、野党国民党所属の彼を取り込もうと、タルラック州に対するポークバレル(公共事業交付金)を凍結した。ニノイは苦渋の決断を強いられた。「自分のプライドを守るために住民を苦しませるわけにはいかない」として、与党自由党へとくら替えした。第二次大戦中に父親は日本軍に協力し、今度は自身が「裏切り者」になってしまった。彼の心痛はいかばかりだったろうか。

 マルコス大統領が戒厳令を布告しなければ、ニノイが次期大統領になっていたはずだ。だが、神はよりよい計画を用意していた。彼は英雄になったのだ。国民に信念を伝えるために、制止を振り切り亡命先の米国から帰国し凶弾に倒れたことは、今も語り継がれている。

 我々が彼を何度失望させても、ニノイはフィリピン人を信じて天から見守っている。(22日・スター、マックス・ソリベン氏)

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