祭壇に「自由の光」
名 所 探 訪 太平洋戦争記念館
マニラ港からフェリーで一時間足らず、バタアン州に属するコレヒドール島に到着する。マニラ湾の入口にある面積約七・七平方キロメートルのおたまじゃくしに似たこの小島は太平洋戦争初期の激戦地として名高い。一九四二年二月末、日本軍への降伏を前に、比米連合軍を率いたダグラス・マッカーサー司令官は「アイシャルリターン」の誓いを残しミンダナオ島経由でオーストラリアに脱出した。その際、利用したという桟橋が被弾の跡を残したまま時を刻んでいた。
標高一九一メートルの丘に立つ太平洋戦争記念館。一九六八年、米国政府が三百万ドルを投じて建設したという。バナナやマンゴーの木々の間から卵形の白いドームが姿を現すと、一瞬、「広島の原爆ドーム」を連想した。高さ十メートル、直径五メートルほどのドームの中央真下に円形の白い大理石の祭壇がある。そこには「眠りなさい我が息子たちよ。あなたの務めは終わった。……自由の光がやってきた」との戦没者追悼の碑文が刻まれている。
この祭壇の上のドーム部分には直径一メートルの穴が開いており、正午ごろには日光が差し込んでくる。碑文にある「自由の光」となり、円形の祭壇を照らし出す仕掛けだ。「この開かれた穴は、戦争で命を捧げた人々が犠牲となり今日の私たちの生活が開かれたことを象徴している」とガイド歴十年のエリサ・クエオヒーさん(44)。五月六日は「コレヒドールの日」と定められ、比米連合軍が降伏した一九四二年のこの日にちなんで戦没者追悼式が毎年行われている。
島を管理しているコレヒドール財団によると、昨年一年間ここを訪れた観光客は五万五千八十六人に上った。大半が米国人を中心とする外国人旅行者だという。米国のサンフランシスコからやってきたロバート・ペトリスコさん(45)。二週間の夏休みを利用しての家族四人連れだった。「高校の授業で学んで以来、コレヒドールは一度訪れてみたい場所だった。娘が高校生になったのを機会にやってきた」と話してくれた。
記念館の敷地内には、「自由の炎」を象徴するスチール製の彫刻が置かれ、米国とフィリピンの国旗がその両側に掲揚されている。だが、観光客を乗せたバスが到着する時以外は、どの戦跡にも人影はほとんどない。芝の手入れをする作業員の姿を時折見かける程度で、静寂に包まれていた。(二階堂安宏)