「平和の始まりを記憶に残す」 キリノ大統領顕彰碑起工式
モンテンルパ市で日本人戦犯への恩赦を通じて国交正常化の道をひらいたキリノ大統領の顕彰碑の起工式が行われる
首都圏モンテンルパ市のニュービリビッド刑務所敷地内で2月29日、日本人戦犯に恩赦を与え比日国交正常化の道をひらいたキリノ大統領の顕彰碑の起工式がとり行われた。同顕彰碑設立事業は、昨年7月に大使館が主催したキリノ大統領恩赦70周年式典を踏まえ、比日相互理解促進事業を民間から継続することを目的に昨年11月に設立されたNPO法人比日連合財団(PHUF、浅沼武司代表)が発案。起工式は同財団の1年越しの交渉が実り、2月8日に比当局からニュービリビッド刑務所敷地内の大澤潔顕彰碑の隣接地に建設許可を得たことを受けて、浅沼代表が呼びかけた。それに在比日本国大使館、モンテンルパ市、刑務所を管轄する司法省矯正局、キリノ財団が協賛して実現した。
式には越川和彦駐比日本国大使および優子夫人、モンテンルパ市のルフィ・ビアゾン市長、キリノ財団からキリノ大統領の孫であるコリー・キリノ氏、マニラ日本人会から高野誠司会長(フィリピン住友商事社長)、矯正局からマーロン・マグバト広報官らが参席した。
越川大使はスピーチで「キリノ大統領はマニラ市街戦で自身の妻子を失った。にもかかわらず、大統領は赦(ゆる)しの道を選び、日本人戦犯に恩赦を与えることで、比日国交正常化の道をひらいた」と述べ、今日の友好関係の基になった「奇跡の赦し」に改めて感謝の意を表明した。
キリノ大統領顕彰碑の建設地が、比日友好に生涯を捧げモンテンルパ名誉市民となった大澤清・元マニラ会会長(2002年没)の顕彰碑の隣に決まったことについても触れ、「ふさわしい場所であり、比日友好親善に尽くした2人の貢献を象徴するものとなる」とたたえた。
また、自身が来週に大使としての任期を終え日本に帰国することを明らかにした上で、「3年以上にわたる駐比大使の任期を振り返ると、比日の黄金時代を象徴する温かさと友情に感謝を禁じ得ない」と謝意を表明。その上で「今日の両国の固い絆を祝福しながら、それに先立つ不幸な歴史を認識することもまた重要だ」と述べ、両国の友好親善のために歴史を語り継ぐ重要性を強調した。
浅沼代表はあいさつで「ここまでこられたのは、ひとえにここにいる皆様のおかげ。ただただ、感謝を申し上げたい」と、涙を浮かべて感謝を述べた。
▽傷にこそ癒やしと平和が
コリー・キリノ氏は、2016年に当時の天皇陛下と共にフィリピンを訪問した美智子皇后(現上皇后陛下)が詠んだ、「許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む」という詩を引用。キリノ大統領の恩赦が「愛の行為」だったとして、顕彰事業に感謝を表した。
また「もしキリノ大統領が生きていたらきっとこう言ったと思う」とし、メッセージを朗読。「赦すには、愛の心を持たねばならない。そして最大の赦しを与えられる心は、最も傷ついた心でもある。だがその心の傷の中には、常に癒やしと平和の約束がある」とし「ひとりひとりの心の中にある愛の精神が、平和の基(もとい)になる」というキリノ家に受け継がれている考えを伝えた。
ビアゾン市長は「比にとって第二次世界大戦の象徴は、バタアン(死の行進)、(日本軍の進軍の前に陥落した)コレヒドール島、(大規模市街戦が起こった)マニラだった。しかし、モンテンルパには戦後の平和の始まりの地としての歴史がある。この歴史は愛と平和を象徴するものであり、繰り返し伝え続けなければならない」と語った。
顕彰碑事業の今後の見通しについて、市長はまにら新聞に対し「現在、土地を所有する矯正局と、市が顕彰碑を維持・管理できるように交渉を行っている。もし矯正局と合意ができれば、市の予算を使ってプロジェクトを実施する道がひらける」と説明。平和の歩みを学ぶ歴史観光開発として位置づけ、比日連合財団とも連携しながら顕彰事業をサポートする意思を示した。
浅沼代表によると、今回の起工式は「キリノ大統領の顕彰事業の意義に共鳴し、支援をし続けてくれた越川大使の在任中になんとか行いたい」との思いで土地使用許可が下りて急きょ企画。本格的な着工は正式な手続きが完了した後で2カ月程度先になる見込みだ。竣工(しゅんこう)式は、雨季を避けるため、今年10月前後をめどに計画を進めているという。(竹下友章)
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キリノ大統領の恩赦
戦後、100万人以上の民間人が犠牲になったといわれるフィリピンでは、強い反日感情を背景に日本との和平交渉が難航。そんななか日本人BC級戦犯はモンテンルパ刑務所(現ニュービリビッド刑務所)に100人以上収監されていた。1948年に大統領に就任したキリノ大統領は、大戦末期に10万人の民間人が命を奪われたマニラ市街戦で、妻子を亡くした遺族の1人だった。
そんな大統領には「赦し難きを赦す奇跡をもってしか恒久の平和は達成しえない」という日本人画家・加納莞蕾からの恩赦嘆願も届く。再選を目指した大統領選の4か月前の1953年7月6日、キリノ大統領は、当時の反日感情を考えれば明らかに自身が不利となる日本人戦犯への恩赦(特赦)の決断を発表する。
その声明の中では、「妻と3人の子ども、さらに5人の親族を日本人に殺された私だからこそ、日本人戦犯に特赦を与える最後の大統領であるべきだ。私は自分の子孫や国民に、われわれの友となりわが国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を、私から受け継いでほしくない」という個人の怨讐を超えた決断、「私をこの決断に導いた善意の心が、人道への信念の行動として、人々の心に響いてほしい」という和解と平和への強い願い、そして「人間愛こそが人と国家の至高の法であり、世界平和の基盤である」という信念が示されている。
恩赦から約3年後の1956年7月、比日の間でサンフランシスコ平和条約および賠償協定が発効し、終戦から11年目にようやく国交が正常化した。