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1月16日のまにら新聞から

受け継がれる1世の「文化資本」(後) 米海軍に入った2世、比軍将官となった3世 日系人准将・エリック内田氏

[ 2304字|2024.1.16|社会 (society) ]

米海軍兵となった父親のビセンテ氏と、比陸軍将校となったエリック内田准将

上段左から父ビセンテ、母アロディア、下段左から内田エリック准将、弟エルマー、弟アーウィン=内田准将提供

 「子どものころは知らないが、日本人の血を引いていることで差別や迫害に遭ったなんて、父からは聞いたことがない」。日本人移民である内田憲人の第8子(5男)として生まれた父・ビセンテ内田について、日系人として比国軍将官になったエリック内田准将(2018年退役)は振り返る。

 1931年にサンボアンガに生まれた内田准将の父・ビセンテは、日本人として生まれたが、戦争が目前に迫っていた8歳ごろに父の決断で比への帰化宣誓を行う。父・憲人は1940年前後、最大の邦人社会があったダバオに居を移す(開戦後は後に大日本帝国陸軍に協力したとも伝わる)。それが最後の別れとなった。

 ただ、それまでの父の教育や上のきょうだいのおかげで日本語を話すことができ、簡単な読み書きもできた。

 ▽比人として米海軍に入隊

 サンボアンガできょうだいらと終戦を迎えた1945年。13~14歳と多感な時期に、兄3人が対日協力をしたとして強制収容所に収監されている。

 そうした戦後の混乱期、対日感情が厳しい時代にビセンテはサンボアンガで学業を再開し、ハイスクールを卒業する。日本との国交正常化も果たされていない50年代初期、卒業後にビセンテのとった選択は、「比人として米海軍に入る」ということだった。

 比では1946年、「比米関係に関する一般条約」が発効し、米国から独立。翌年には比米軍事基地協定が締結された。あまり知られていないが、同協定が失効する1991年まで、比人も在比米軍基地を通じ、米軍に入隊することができたのだという。

 大戦からの復興の途上で、しかも比米経済格差は今とは比較にならないほど大きかった時代。世界最大の先進国である米国の軍隊に入るというのは、当時の比人にとって大きなチャンスだったはずだ。

 ビセンテは日本の姓を隠さず、ザンバレス州のスービック米海軍基地に赴いて入隊試験を受験し、見事合格。米海軍スービック基地採用の比人水兵となった。ほとんどの勤務は軍艦内。朝鮮戦争停戦直後というのもあって、半島に残った米国兵の遺体を引き取る任務もあった。

 

 ▽学生結婚生活

 1960年、28~29歳のころにビセンテは約6年の兵役を終え、米海軍を名誉除隊する。同年、後の内田准将の母となるアロディアと結婚した。

 除隊後に、ビセンテが励んだことは勉学だった。米軍で働き名誉除隊をした比人には、奨学金や米市民権付与などの便益が提供されていた。ビセンテは「比人であることを誇りに思っており、米国籍を取る機会は利用しなかった」(内田准将)が、米軍の奨学金を活用してマニラの大学に通い卒業。長男・エリック(内田准将)を含む3人の子は、そうした学生生活時代にマニラで誕生している。

 30代の学生結婚生活を経て、ビセンテはサンボアンガに帰郷。郷里で行政官としての第二のキャリアを歩んだ。

 ▽士官学校学位記はマルコス大統領から

 そんな父親の背中を見てサンボアンガで育ったエリック内田氏が、国軍を志したのは戒厳令期の末。当時はホロ島などでのイスラム分離主義者との戦闘が激しく、国軍士官学校を受験したいと打ち明けたとき、母は懸念したが、父は理解してくれた。

 国軍士官学校を出たのは1984年。学位記は故フェルディナンド・マルコス元大統領から手渡された。日本帝国陸軍と共に働いたとされる祖父、米海軍として働いた父に続き、自分は比陸軍の青年将校となった。

 最初の階級は少尉。小隊長としてスルー、バシランなどイスラム武装勢力との紛争の最前線の地に赴任。死と隣り合わせの生活を経験する。

 「士官学校の同期生の多くが殉職すると聞きますが」との記者の問いに「そういうもの。仲間の死には慣れている」と淡々した口調で語る内田准将。国軍士官の務めは、そうした部隊長としての現場配置と、国軍本部での務めを2~3年ごとに繰り返すのだと説明してくれた。

 また、サダム・フセイン大統領時代のイラクに国連派遣部隊の一員として派遣されたこともある。

 ▽学習意欲がもたらした昇格

 祖父・憲人、父・ビセンテと共通するのは、学習の機会を逃さなかったことだ。92年、2002年と米国で2回にわたり、米軍上級士官向けのトレーニングコースをそれぞれ修了。帰国後は国軍の司令部・幕僚コース(CGSC)を取った。同コースには、米国、豪州、韓国の士官も参加していた。同期生は比米国軍事顧問団(JUSMAG)や在比豪州大使館の駐在武官などに着任。内田准将がそうであったように、比も士官を海外の上級士官コースに派遣しており、こうした上級士官コースは将来の軍幹部候補生が国際的な人的つながりを作る場としても機能しているという。ただ、自衛隊から比国軍の司令部・幕僚コースに派遣された士官をみたことはなかった。

 こうした経験と研鑽(けんさん)を重ねた内田氏は准将に昇格。対共産ゲリラ作戦を行う第3歩兵師団301歩兵旅団の旅団長を経験し、幕僚としては比国軍隊員全体の訓練に尽力した。

 退役1年前の2017年には、比陸軍代表団の一員として防衛省、防衛大学を訪問。家族ぐるみの付き合いがある浅沼武司氏=まにら新聞「行雲流水」執筆者=の付き添いで、祖父の国・日本の地を踏んだ。

 「憲人から日本の精神を継承していると思うか、あるとしたら何か」

 この質問に内田准将は「私は父を通し、祖父から規律と勤勉の精神を受け継いだ。私は日本人の血と名前を持って生まれたことをとても誇りに思っている」と明確に答えた。(竹下友章、終わり)

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