受け継がれる1世の「文化資本」(前) 密航で移住も母国に殉じた祖父 日系人准将・エリック内田氏
初の日系人将官エリック内田准将に、内田家3代の歴史を聞く(前)。17歳で密航し、サンボアンガで成功を手にした祖父内田憲人の半生
戦前に移住した日本人の子孫で、比国軍の将官にまで上り詰めた人物がいる。80年代に国軍士官学校を卒業し、1個旅団を率いる「ブリガディア・ジェネラル(准将)」まで昇格、2014年から16年にかけ第3歩兵師団301歩兵旅団(イロイロ州拠点)の旅団長も務めた日系3世のエリック内田氏(2018年退役)だ。将校は終身身分であるため、今でも身分は准将。内田准将以前に日系人で比国軍の将官となった人物は確認されておらず、記録上で比史上初の日系人将官だ。
内田准将が今月、まにら新聞の単独取材で明かした内田家のファミリーヒストリー(家族史)を垣間見ると、移住後身一つの状態から、その勤勉性、勇気、進取の気性、向学心だけを武器に成功を手にした往時の移住者の壮絶な人生が浮かび上がるとともに、その1世の精神がフランスの哲学者ブリュデューのいう「文化資本」として、日系人迫害の厳しい戦後を経て国軍将官を輩出した内田一族の中に、世代を超えて受け継がれていると感じさせられる。
▽17歳で「密航」
内田准将の祖父は明治22年、京都生まれ。その名は「ケンジ・ウチダ」と伝えられていたが、日系人として日本に就労した経験のある内田准将の弟アーウィンさんの支援者が見つけ出した戸籍謄本によって、「内田憲人」だと分かった。国際都市・神戸で憲人は、サンボアンガに関係を持つ米国人ビジネスマンの助手として働いていたらしく、1907年、神戸の港から弱冠17歳でサンボアンガに渡航。その方法は「密航」だったと伝わる。
内田憲人の名は「昭和12年比律賓年鑑」にも見つかる。それによると、比への渡航日は明治40年(1907年)5月17日で、内田一族の口承と一致している。
▽向学・勤勉・成功
サンボアンガを居住地と定めた憲人が、身を立てるため選んだ職業は種々伝わる。その中でも特に顕著な足跡を残しているのは、写真家業だ。憲人は戦前のサンボアンガの風景を洗練された構図で捉えた写真を多数残しているためだ。その写真を目に止めたサンボアンガ出身の芸術家・著述家で国立博物館委員会の委員も務めたアイセル・ボルハ氏が、写真に入っている署名の主を求め、現在物故者となっている憲人の子ども(第5子アグスティン)を探し出し、複数の子孫の証言からその記録を残している。
それによると、憲人は世界中の写真専門誌を渉猟(しょうりょう)して写真術を学び、英国から現像用薬品を取り寄せるなど品質にこだわって、サンボアンガの行政機関や企業など大口顧客を満足させた。憲人は、日本人移民・小山勘次郎が1921年にサンボアンガに設立したオーロラ・スタジオ(小山寫眞材料店)の経営も行っている。
読書家・勉強家だった憲人は、特に語学に秀で、英語、タガログ語、スペイン語のほか、サンボアンガで話されるスペイン語が元となったチャバカノ語を習得。その技能を生かし、通訳や翻訳家としても活躍。サンボアンガの地方裁判所で翻訳者としても働いていた。
そんな憲人が結婚したのは、移住から5年目の1912年。22~23歳のころだ。当時16~17歳だったアグリピナ・イグナシオという若く美しい比人女性を娶(めと)る。2人は10人の子宝に恵まれた。
複数の職業を兼業した憲人。家では農業にも従事し、妻の名義で農地を3カ所買い、バナナ、キャッサバ、野菜などを栽培。夜中にも月明かりの下で畑仕事をした。「夜に働くと災いを招く」という土地の迷信には、「昼に『飢える』より、夜に『植えた』方がいい」と言い、家族に一緒に働くよう言いつけた。
「とても愛国的な人で、日本の作法に厳格。食事の際の会話は、『行儀が悪い』と許さなかったと父に聞かされた」と内田准将は振り返る。そんな祖父は、一代で複数の農地の所有者になった。
▽邦人社会そして日本軍に参加
富を築いた憲人に転機が訪れたのは、大戦の足音がすぐそこに迫っていた1930年代末。1939年、憲人は看護師をしていた長女クロタイド(当時24~25歳)に一切の財産を譲った。所有していた写真機材や権利などは写真館オーナーの小山氏に売却した。
当時の1935年憲法では国籍に関し父系主義をとっていたため、10人の子どもは既婚の娘以外、法律上は日本国籍。憲人は子どもたち全員を比人として生きさせることを決断。帰化宣誓を通じ、子どもたち全員に比の国籍を取得させた。1931年生まれの内田准将の父・ビセンテは、7~8歳のころに帰化した。農場の経営は長男らが引き継いだ。
子どもたちとは異なり、どこまでも日本人である憲人は、資産を譲った後、在比邦人社会との関わりを強くする。当時日本の傀儡(かいらい)政権が統治し、多くの邦人移住者のいた満州国(マンチュクオ)をもじって「ダバオクオ(ダバオ国)」と呼ばれるほど邦人社会が発達していたダバオに居を移した憲人は、日本人学校の国語教師の職に就きながら、日本人商工会議所でも働き、ダバオ日本人会サンペドロ地区の代表も務めた。憲人が生活の拠点を作った後は、妻アグリピナや幼い末子ディオニソス(1936年生)も合流した。
ボルハ氏の記録によると、1941年日本帝国陸軍がダバオを占領すると、憲人は進駐軍に参加。陸軍のモリモトという名の将校の下で通訳・翻訳官を務める。連絡担当官に取り立てられた憲人は、コタバト、マニラ、ダバオ、セブと任地を転々としたという。
▽モンテンルパに収監された2世
米軍のミンダナオ上陸直前、危険を悟った憲人は、比人として生きられるダバオの妻子をサンボアンガに帰す。この別れを最後に、内田家の憲人に関する言い伝えは途絶える。
1945年、米軍がサンボアンガを「解放」。サンボアンガの農場経営をしていた長男ロベルトと3男フェリペ、日本占領下のラウレル政権期に当時の警察軍に入隊しサンボアンガで勤務していた次男アグスティンは、対日協力をしていた疑いで強制収容所に収監される。アグスティンは米軍の介入で釈放されたが、ロベルトとフェリペはそのままモンテンルパ刑務所に送られた。
1948年1月、ラウレル元大統領を含めた対日協力比人に対し、ロハス大統領が恩赦を布告。父の判断によって比人になっていた2人は、それによって足掛け3年の収監を経てモンテンルパから釈放された。
戦後、日本人の資産は全て接収された。しかし、内田家は憲人が比国籍の子どもたちに相続させたおかげで、資産は一部接収されただけで済んだ。今でもウチダ家は、サンボアンガに憲人がなした複数の農場や建物など不動産を所有している。
一方、妻子と離れた後の憲人の行方は杳(よう)として知れない。終戦時56歳とまだ若いにもかかわらず戦後一切家族に連絡がなかったという事実を鑑みると、生きている可能性は考えにくい。何も持たない17歳の密航者から、その向学心、勤勉、才覚をもって一代で財をなした憲人は、祖国の兵として多くの戦没者と運命を共にしたとみられている。(竹下友章、続く)