「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
29度-23度
両替レート
1万円=P3,700
$100=P5855

5月26日のまにら新聞から

フィリピン移民120年⑤ 「就籍はアイデンティティーの問題」 石川義久在ダバオ総領事

[ 3194字|2023.5.26|社会 (society) ]

石川総領事に、残留日本人問題との関わりについて聞いた

石川義久総領事=在ダバオ総領事館で竹下友章撮影

 昨年4月の着任のあいさつでは「日系人の方々が長年経験されてきたご苦労や思いに寄り添う総領事館になる」と宣言し、外務省がNPOフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)に委託し実施する残留日本人調査では、自らも靴を泥まみれにして奥地に暮らす残留日本人を戸別訪問して面接を行うなど、残留日本人問題に積極的に取り組む石川義久在ダバオ総領事。同総領事に、残留日本人問題との関わりについて聞いた。(聞き手は竹下友章)

 ―残留日本人問題との関わりは。

 1988年から94年まで在比日本大使館に勤務した。そのときはまだ20代後半から30歳ごろ。なんのきっかけだったか、当時毎日新聞記者だった大野俊・清泉女子大学教授が書かれた「ハポン」(1991年、第三書館)という本を読み、こんなことがあったのかと衝撃を受けた。

 いてもたってもいられなくなり、残留2世のカルロス寺岡さん=元バギオ名誉総領事、前フィリピン日系人連合会会長=をバギオの御自宅まで突然訪ね、厚かましくもその晩そのまま泊めていただいた。カルロスさんや妹のマリエさん(故人)から、じっくりとお話をうかがい、残留日本人がいかに筆舌に尽くしがたい戦中・戦後を生き抜いてこられたのかを知った。寺岡さん兄妹が日本人以上に日本人の誇りを持って生きてこられたことに背筋がピンと伸びる思いがした。自分が何も歴史を知らなかったこと、自分が平和ぼけして過ごしてきたことを深く恥じた。寺岡さんとの出会いが今に至るまで残留日本人問題に関わるきっかけになった。

 寺岡さんとお会いした後、何かしなければいけないと思い、あるときバギオからずっと山に入り残留日本人を探しに行ったこともある。

 ―どういう調査をしたのか。

 カルロス寺岡さんに紹介してもらったダビッド長岡さんと2人で、各地にぽつぽついらっしゃった残留日本人の方々を探した。サガダ(マウンテンプロビンス州)、ボントック(同)、キアンガン(イフガオ州)、バナウエ(同)など。登山バスに乗って、山道を上がっていき、車も入れないような狭い山道を歩いた。4日間ほど回り、残留日本人がいると聞くとそこに行って、お話を聞いた。山下将軍が降伏した場所で知られるキアンガンでは、長岡さんが遠くの山を見ながら、はらはらと涙を流すのを見た。聞いてみると、終戦間近、命からがら逃げていたその山中でご両親を亡くされたそうで、それから50年近く、ここには来ることを避けていたとのこと。この時、ルソンの山岳地帯で、このような多くの悲しい話を聞いたことは今でも忘れられない。

 この調査を元に報告書を書いた。その時はまだ三等書記官だったし、日本政府による残留日本人調査も始まっておらず、何ができるか途方に暮れる思いだったが、日本政府はこの問題に真剣に向き合わなければならないということを大使館で私なりに訴えたことを覚えている。

 その後、フィリピン残留日本人調査が本格化し、多くの方々がこの問題に積極的に関与され、少しずつではあるが、前進して来たと思う。まだまだ不十分と思うが、私が北部ルソンを回った頃と比べると隔世の感がある。

 ―なぜ戦後長らく残留日本人問題が放置されたのか。

 戦後、反日感情が激しい中、日系人たちは自らの出自を隠し、フィリピン人として生きてきた。それに加え、日系人たちが組織化されていなかったことが大きいと思う。私が知る限り、残留日本人・日系人問題に最初に取り組んだのは、シスター・テレジア海野(海野常世・うんのとこよ)さん。横浜から修道女として来比して、北部ルソンの山の中に残留日本人・日系人がたくさん隠れて暮らしていることにショックを受け、日系人を組織化するという活動を70年代に始められた。バギオ市、ベンゲット州の山岳地帯の残留日本人を探し回り、87年に北ルソン比日基金を作った。

 私が比に初めて来たのは88年。その翌年に海野さんは亡くなられた。彼女が来るまではダバオ、バギオを含めて戦後30~40年経っていながら、残留日本人・日系人はみんなバラバラだった。戦後の迫害と差別のため、自らの出自を隠して生きてきた。シスター海野は本当に尊敬すべき人だと思う。カルロス寺岡さんなどが、シスター海野の思いを受け継いだ。

 ―残留日本人の身元探しにはどのような問題があるのか。

 日本人の父親がちゃんと子供を戸籍に登載していたケースもあれば、父親が移住・結婚したところまでは載っていても、子どもまでは載っていないケースなどさまざま。

 また、戦後の迫害から逃れ、フィリピンで生き残るために書類を処分してしまい、日本人であることを証明することが難しいケースも多い。死別または生き別れた父親の名前や出生地が、耳からの音の伝聞によるため、曖昧なケースもかなりある。

 比は日本のように戸籍がしっかりしていないので、そもそも出生登録ができていない方、さまざまな事情からフィリピン人を父親として出生証明書を作成してしまったケースもあり、日本人であることを証明するのは簡単なことではない。

 残留2世の方の就籍が叶(かな)った場合、4世までが日系人として日本に行くことができるが、残留2世が亡くなると、原則として、就籍の可能性は潰(つい)えてしまう。現在、残留2世の方々の平均年齢は83才であり、毎年多くの方がお亡くなりになっている。一刻の猶予も許されないと認識している。

 ―外務省はどのような支援をしてきたか。

 外務省は95年からフィリピン残留日本人調査を断続的に実施してきた。現在、外務省はPNLSCに事業を委託しており、昨年末から実施しているのは第16次調査。こちらの日系人連合会、PNLSCと協力している。また、在比日本大使館は、比外務省、比司法省、比国家統計局などとも頻繁に協議し、就籍に関連する多くの問題について、比側の協力を要請している。

 残留2世の就籍のための面接はこれまでも比全土でやっているが、特にダバオはすごく対象者が多い。今年はダバオ以外でも、サンボアンガ市、北コタバト州、南コタバト州、西ダバオ州、東ダバオ州など多くの面接調査が予定されている。総領事として直接残留2世の方々にお会いして、できる限り就籍のお手伝いをしたい。

 ―ダバオ総領事として力を入れたいことは。

 まずは残留日本人問題、そして2005年以降、全力を尽くしてきたミンダナオ和平支援の二つ。今年は日本人が比への移住を始めて120周年の節目で、再来年はバンサモロ自治政府が発足する予定。このタイミングで在ダバオ総領事に任命されたのは、まさに運命だと思っている。

 ダバオでは戦前2万人を超える邦人が幸せに豊かに暮らしていた。そういう方々が戦争という抗いようもない運命に翻弄され、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験されてきた。残留日本人・日系人問題、残された時間は少ない。日本政府としてやるべきことを、真剣に、性根を据えてやる。それは日本政府の責任である。できることは何でもやるつもりだ。

 一番大事なことは、就籍は残留日本人の方々のプライド、アイデンティティーの問題だということ。かれらが戦後78年抱き続けた「日本人として認められたい」という思い。戦後の平和を謳歌(おうか)している私たちは残留日本人の思いを自らのこととして考えるべきだ。

 いしかわ・よしひさ 1963年、東京都生まれ。早稲田大政治経済学部政治学科卒業後、87年外務省入省。88年国立フィリピン大学留学。外務省南東アジア第二課、在米国日本大使館一等書記官、在比日本大使館一等書記官、外務省南東アジア第二課地域調整官、外務省国内広報室長などを経て、22年在ダバオ総領事着任。

社会 (society)