「マルコス期の比日関係再検討を」 エドサ革命37周年で解説
津田守阪大名誉教授がマルコス元大統領と日本との経済関係について報告と解説
故マルコス元大統領により戒厳令が敷かれる前年の1971年から同令が解除される81年までの約10年間、フィリピン大大学院生、同大講師、同大ロースクール上級研究員などとして比に滞在し、比日経済関係を研究した比研究の第一人者・津田守大阪大名誉教授が24日、エドサ革命(アキノ政変)から37周年に合わせて京都大、フィリピン大らが共催したオンライン学会に登壇し、故マルコス元大統領の政治キャリアと比日経済関係を、自身の経験を交じえ解説した。その概要を紹介する。(竹下友章)
▽賠償と商売
1949年、マルコス氏が下院に初当選を果たした年は、まだ比日の賠償協定は交渉中だった。困難な交渉の末、賠償条約が締結され、1956~76年にかけ実施。5億5000万米ドルの賠償は「金ではなく物品と役務の形で支払われた」。
主要な賠償事業は「日本の政治家が好む公共事業が多かった」。また、「砂糖工場建設も最も大きな賠償事業の一つだった」。後にマルコス氏はロベルト・ベネディクト氏を駐日フィリピン大使に任命するが(在任1972~78年)、同氏はネグロス島の有力な砂糖事業家の出身で、「マルコス氏との強い関係を通じて、砂糖産業に独占的な地位を築くことに成功した」。
賠償事業の性質について同名誉教授は「賠償(バイショー)は逆さに読むと商売(ショーバイ)」。朝鮮特需などにより、戦後から復興し始め国内に余剰生産物を抱えていた日本にとって、物品による賠償は「比市場の開拓にもつながった」。
1965年、マルコスは大統領に就任。67年、同大統領は日本企業の比国内活動を承認し、投資誘致法を制定させ、日本の主要総合商社に営業許可を与える。最初の比日合弁企業も設立される。
同年、佐藤栄作首相が比を公式訪問。翌68年、最初の円借款が比日友好道路の建設のために供与される。同道路は戒厳令下の「新社会」のもとで、「マハルリカ・ハイウエー」と改名された。この道路は現在「パン・フィリピン・ハイウエー」となっている。
比日友好道路の一部として建設されたイメルダ夫人の地元・レイテ島とサマール島を結ぶサン・フアニコ橋の竣工(しゅんこう)式(73年)は夫人の誕生日に開かれた。
同名誉教授はまた、「69年に卒業研究のために比を訪問した際、大統領、イメルダ夫人と子どもたちの写真の載ったカレンダーを見て驚いたのを覚えている。ある比人ジャーナリストは、そのカレンダーが多くの世帯と政府機関に送られており、香港で印刷され日本の商社によって輸入されていると言っていた」と振り返った。
▽「第二の侵略」
津田名誉教授は71年からフィリピン大の大学院生となる。当時から「多くの日本企業が比に進出し始めており、『日本による第二の侵略』と呼ばれ始めていた」。
1960年に署名されたが比上院が批准しないままだった日比友好通商航海条約に対し、「不平等な条項を含むとして無期限批准延期することを上院が決議したのは1972年3月」。それを戒厳令布告後、条約批准権を手にしたマルコス大統領が批准する。
1974年、田中角栄首相が比を公式訪問。首相訪比直後、マルコス大統領は日本の大手鉄鋼会社の大規模な投資を発表。これが「環境汚染の危険のある日本企業の進出の始まり」。多くの大小日本企業が比で操業し、貿易も増加した。日本は比の最大の貿易相手国になった。
「新社会」の下で日本は戦時下の残虐行為を忘れられ、「規律の国」として認知されてゆく。
▽「マルコス疑惑」
37年前、マルコス家がハワイに亡命した際、数千の文書が押収された。これには日本の政府開発援助(ODA)も含まれる一連の不正「マルコス疑惑」追及の根拠になる。
横山正樹・現フェリス女学院大名誉教授と共に数年かけて研究を行い、「日本・フィリピン政治関係資料集―マルコス文書、アキノ証言集および関連文書選―」という書籍を出版した。これは「日本企業からのキックバックを通じたマルコスの不正蓄財の証拠資料を含んでいる」。
コリー・アキノ大統領=当時=が86年に訪日した際、中曽根首相=同=は経済協力の継続を約束した。大統領行政規律委員会のホビト・サロンガ元委員長は、アキノ大統領の帰国後に日本政府から調査の停止を要求されたと述べている。
発表の最後、津田名誉教授は「戒厳令布告から半世紀を経た今、なぜ故マルコス元大統領の政治的キャリア、彼の家族や取り巻き政商の富の拡大、日本の政府や企業の利益が、ウィンウィンの協力関係と特徴づけられるのか、もう一度考える良い機会だ」と述べ、その長男が権力の座についた現在、いまだ解決されないマルコス家の不正蓄財問題を日本との経済関係の点からも解明する重要性を指摘した。