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12月12日のまにら新聞から

ラセリス博士講演(上) 「何が比人を比人たらしめるのか」 比研究66年を振り返る 第5回PSCJ 

[ 2330字|2022.12.12|社会 (society) ]

アテネオ大のラセリス博士が66年に及ぶ研究史を振り返った講演を日本で行なった。その内容を3回に分けて紹介する

東京大学で基調講演を行うラセリス博士=11月26日

 東大で先月末、今回で5回目を迎える4年に1度の国際学会「フィリピン・スタディーズ・コンファレンス・イン・ジャパン」(PSCJ)が開催された。同学会の目玉となる基調講演では、フィリピン研究の大家、マリー・ラセリス博士(90)が登壇。比の社会科学者として66年間比文化・社会研究に身を投じ、今もなおアテネオ大で教鞭を執り続ける同博士が50年代から現代に至る激動の比現代史と学界の歩みを回顧した。本紙ではその概要を3回に分け紹介する。(竹下友章)

 マリー・ラセリス博士は1932年に首都圏ケソン市で比人父と米国人母の間に誕生。3人きょうだいの「真ん中」でもあり、幼少期から「中間的存在」という感覚を持ち、それが社会への観察眼を育んだ。

 米コーネル大卒業後、「人類学を学びたい」との情熱を胸に1956年にフィリピン大(UP)の修士課程に入学を希望したところ、教員から「人類学には希望がない」と告げられたことで、社会学の道に入る。後でその時の「人類学」とは文化人類学でなく骨格や皮膚から人種分類をする形質人類学のことだったと分かった。

 1950年代後半から60年前半にかけてのUPの社会科学教育・研究の状況は、経済学部を除いて小規模で、修士レベルの教員が講義を持ち、「研究することはまれ」。当時UPでは「壮大な研究プロジェクトより教授陣の育成が急務」との考えが支配的だった。その教授陣は米国的な機能主義的実証主義に根ざしていたが、その理論は比にはほとんど当てはまっていなかった。

 ▽魂の叫びのような議論

 比文化とその近代化過程の実証研究をけん引したのは、アテネオ大のフランク・リンチ神父だった。同神父は1959年に米シカゴ大で人類学博士を取得。社会科学といえば経済、政治に限られていた比学界に人類学と社会学を持ち込んだ。同神父は60年にアテネオ大にフィリピン文化研究所(IPC)を設立。ラセリス博士は最初の研究員に選ばれた。

 1960年の設立当初のIPCにおける課題は「何が比人を比人たらしめるのか」だった。当時は、親族を優先採用することをよしとするような比の伝統的価値観は現代には通用しないと批判されていた。例えば、当時の有力政治家ラウル・マングラプスはフィエスタ(祭り)を金持ちの地位を高めるだけの衒示(げんじ)的消費だと非難していた。

 そんな比人アイデンティティーに関する研究は「魂の叫びのような議論」であり、価値観研究の形をとった。実地調査を重視するIPCの初期の主要な成果の一つは「比の価値観に関する4つの見解」。「ウータン・ナ・ロオブ」(恩義)や「ヒヤ」(恥)などの言葉を比人の価値観を説明する概念として一般化した。

 70年にラセリス博士はIPC所長に就任。このころUPはアテネオ大の価値に関する研究を疑問視し始める。UPのポンス・ベナゲン教授ら当時の若手研究者らが、UP出身のメンバーを中心として、より活動的でマルクス主義的方向性を持ったフィリピン人類学会(UGAT)を設立。アネテオ大とUPの対立が表面化しはじめた。

 ▽屈辱のイメルダ会談

 1970年1月、労働者、農民、都市貧困層、そして学生による一連の抗議運動「第1四半期の嵐」が発生。この運動では、1966年に比からベトナム戦争に派遣していた比民生活動隊も激しい批判の対象となった。この派遣隊は医療や建設への支援が主とされたが、砲兵大隊、歩兵警備隊も含まれていたからだ。

 このころ、経済は低迷し地方では新人民軍(NPA)が台頭。69年末のマルコス再選は緊張を激化させていた。学生たちは積極的にデモ、集会、討論会を開いた。70年1月26日、施政方針演説を終えて国会議事堂を出たマルコス夫妻にデモ隊は投石の嵐を浴びせた。その中にはダンボール製の棺桶やワニのぬいぐるみも紛れていた。

 投石事件から数週間後、リンチ神父、UP・アテネオ大の学生リーダーらと共にラセリス博士は大統領府に招かれた。この訪問は、大統領夫妻へ比の貧困の実態を説明するのが目的のはずだった。しかし待っていたのは、イメルダ夫人が研究者らに話す暇を与えず、東海岸沿岸都市を建設するという壮大な計画などを2時間ノンストップで話し続けるという「耐え難い経験」だった。

 1月の施政方針演説後の投石事件について夫人は「私は(長女)アイミー、(長男)ボンボン、(次女)アイリーンに愛情を注ぎ、ベッドに寝かせおやすみと言ってきた。あの乱暴な学生の親はなぜ同じことができないのでしょう」と事件を学生の親の愛情不足のせいにした。

 ▽「雑貨屋の倅ふぜいが」

 70年のデモは続き、社会から疎外された階層から支持を得たデモ隊の規模は数千人規模に拡大。市街地と大統領宮殿をつなぐメンディオラ橋付近で警察・軍隊がデモ隊と衝突した「メンディオラ橋事件」では、デモ隊が消防車を奪って宮殿の門に突っ込み、学生5人が殺された。デモ行進は米国大使館前でも行われ「帝国主義、資本主義、封建主義」と糾弾の声を上げた。

 約600の大学自治会からなる比学生連合(NUSP)など穏健派は、マルコス大統領に再選への立候補をしないよう求め、再選後は改憲をしないよう要求した。NUSPのジョプソン会長がマルコス大統領にその旨を記した協定書への署名を求めたとき、大統領は「雑貨屋の倅(せがれ)ふぜいが」とだけいって拒否した。

 72年9月、マルコス大統領が戒厳令を布告。公然とした抗議活動は厳しく弾圧され、多くの学生が地下組織に加わる選択をした。穏健派だったジョプソン会長もその1人だった。(続く)

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