福島に残った「介護のヒロイン」 比人4人 高齢者見捨てず
2011年3月11日午後2時45分すぎ、当時、筆者がいた東京・港区の共同通信社の細長い高層ビルは10分近く揺れ続けた
2011年3月11日午後2時45分すぎ、当時、筆者がいた東京・港区の共同通信社の細長い高層ビルは10分近く揺れ続けた。窓から見ると、付近の高層ビルも不気味なほど長く揺れ続けていた。
その後は帰宅難民の一人となり、東京の新橋から葛飾区の自宅まで歩いて帰った。午後8時前に会社を出て、くたくたになって家にたどり着いたのは午前2時ごろだった。
翌日は土曜日で、しばらくは余震が続く家で呆然(ぼうぜん)と過ごしていたが、福島第一原発事故の報を聞いてからは福島通いが始まった。最大の目的は原発事故の被害状況取材だったが、3月24日には、福島県白河市の特別養護老人ホーム「小峰苑」で働くフィリピン人介護士を取材をした。当時、外国人は原発事故を恐れ、続々と日本を脱出していたが、小峰苑の比人女性4人はあえて残っていた。
経済連携協定(EPA)に基づいて来日した看護師のメルセデス・アキノさん=当時(27)=は「国の家族からは『すぐに比に帰って来て』と悲鳴のような電話が毎日のようにかかって来る」と打ち明けた。それでも「お年寄りがここにいる限り、私たちはここに残る。おばあちゃんたちからチョコレートをもらったり、日本語の勉強用ノートをもらったりとすごく親切にしてもらっている。地震も放射能も怖いけど、お年寄りを残して私たちだけが帰国することはできない」ときっぱり言った。
彼女らの存在を知ったのは比のABS—CBNの報道だった。当時、筆者の家ではCSチャンネルにあったABS—CBNを契約していた。震災直後の「大本営発表」かと思うほど極端に自己規制がかかった日本のテレビと比べると、日本に取材班を送ってきたABS—CBNの報道は新鮮だった。自己規制など一切せず、原発被害の深刻さも伝えていたし、東北地方の在日比人のヒューマンストーリーも連日報じていた。その中でABS—CBNは小峰苑の4人を探し出し「介護のヒロイン」と称えていた。
その後も福島通いは続いた。原発事故で牛の出荷ができなくなり「原発さえなければ」と納屋の壁に書き残して首つり自殺をした男性の妻は比人だった。彼女にも何度も会って話を聞いた。
大震災後、福島県南相馬市の原町カトリック教会に志願して赴任した狩浦正義神父には、除染作業に比人も雇われて加わっていることを聞いた。
▽今はいわき市に多数のエンターテイナー
そして今、除染や廃炉作業員の拠点となっている福島県いわき市には多数の比人エンターテイナーが働いている。
日本は2004年の最盛期、比人エンターテイナー8万人を受け入れていたが米国務省の報告書で「人身売買による性的搾取」と告発されたことで、原則として受け入れない方針に転換した。報告書は実態とはかなり異なる内容だったが、この方針は現在も続いている。しかし、福島だけは例外なのだ。
マニラ首都圏のカラオケ・パブに行くと「最近、福島に働きに行った」という女性に頻繁に会う。いわき市に行った者が多い。
除染や廃炉作業の日当は通常の建設作業に比べ2〜3倍高い。日銭に余裕のある作業員たちは、フィリピンパブでストレスを発散し、癒やされてもいるのだろう。福島に行った比女性も「また行きたい」と口をそろえて言う。双方にとってハッピーな話ではある。しかし、作業員らの「癒やし」のため、福島だけを例外に比人女性を受け入れるというのが日本の「国策」だとすれば、微妙な違和感も残る。(石山永一郎)