ハロハロ
70年前、太平洋戦争が終結した1945年、現在85歳の筆者は15歳の中学生で、規定の身長を3ミリ満たして合格、飛行予科練習生になった。三重海軍航空隊に入隊後、宝塚海軍航空隊(現宝塚劇場)などを転々とし高知県浦戸海軍航空隊に配属された。燃料不足で飛行訓練は全くなく、土佐湾に面した東部の町、手結で米軍を迎撃する任務を命じられた。渡された武器は敵から奪った古びたチェコ製機関銃。一発も撃つことはなかった。
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現在、フィリピンで十数度目の正月。元日は比人夫婦を招いておせち料理。2日はタール湖に近いアルフォンソのビレッジで新年会。招待主は元海上保安本部の幹部で、PRA日本人クラブ南ルソン支部長の田中耕蔵さんと由紀子夫人。田中宅に着いて驚いた。40人近いゲストで満席。日本人は4人だけ。大多数は米国帰りなどの比人。ドイツ、韓国、オーストラリアの人たちが5人いたが、誰もがビレッジ住人で、顔を合わせるとニッコリするご近所さんという。異国の地で日本人の声掛けに応じ、国籍に関係なく親睦の輪を広げている。平和の素晴らしさを味わった。
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5日朝、拙宅に宿泊中のオーストラリアの女性がイントラムロスを見物したいと希望、カランバの拙宅を出た。国学院大に留学中、土日はほとんど藤沢の拙宅で過ごしていた。「まるで血を吸ったかのように赤いさびの浮き出た砲弾の破片、外壁を残すだけで、破壊しつくされた舎……」。59年に初来比、足を踏み入れたサンチャゴ要塞の印象をこんなふうに書き記しているが、今回訪ねると要塞だけでなく、イントラムロスは見違えるような観光地になっていた。しかし、70年前の2月のマニラ市街戦では10万人が死亡、大戦中の現地人死者は推定110万人、日本人は52万人。日本が残した「負の遺産」は少なくない。(濱)