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1月28日のまにら新聞から

ハロハロ

[ 692字|2013.1.28|社会 (society)|ハロハロ ]

 太平洋戦争末期の1945年2月、マニラで日本人が忘れてはなられない悲惨な出来事が起きた。今週末にその2月を迎える。比島戦線で反攻に転じた米軍が同月2日、同市内で総攻撃を開始。迎え撃つ日本軍は、乗艦を失った海軍部隊1万6600人と、鉄砲の撃ち方も知らない企業の駐在員ら在留邦人の召集兵が主体の陸軍部隊4300人で、劣勢は明らか。砲声が収まった3週間後、飢えや極度の疲労も加わり、1万人が命を落とし、多数の市民が犠牲になった。

 1959年、筆者が初めて足を踏み入れたサンチャゴ要塞。そこの地面は、まるで血を吸ったかのように赤茶けていた。米軍が120門の大砲で撃ち込んだ砲弾の破片が飛び散って錆びていたからだ。日本軍の劣勢を象徴する惨事が同月16日深夜、リサール公園で起きた。海軍防衛隊の100人が匍匐(ほふく)前進で公園を横断、リサール記念像近くまで来たところで照明弾に照らし出されて一斉射撃を受け、全員が死亡した。ふくれ上がって異臭を放つ遺体は、現場に放置されたままだったという。

 彼らが向かったマニラホテルでは、重傷の日本兵は毒入りの「別れの杯」をあおり、軽傷者は手投げ弾で自決を命じられたという。誰もが、日本にいる肉親が無事を祈っていた夫や息子たちだ。米軍戦史が10万人と推定している市民の犠牲者は、その大半が壮絶を極めた米軍の砲撃によるものだが、日本軍が殺害した事実も否定できない。彼我ともに庶民は、日本が起こした戦争の犠牲になった。こうした事実を知っていただきたく、再び「マニラの悲劇」を取り上げた。記述は小島襄著「マニラ海軍陸戦隊」などを参照した。(濱)

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