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2月27日のまにら新聞から

少ない死者数

[ 700字|2012.2.27|社会 (society)|新聞論調 ]

スペイン統治下の地震

 フィリピンは日本と同じく、4万キロに及ぶ環太平洋火山帯の一角にある。ニュージーランドから両国を経て、アラスカ、米国西海岸を走り、南米のチリまでに及ぶ火山帯である。世界で起きる地震の90%と大地震の89%は、この火山帯で発生していると言われる。

 スペイン統治下の1645年、マニラは甚大な被害をもたらした地震に見舞われた。スペイン人、ミゲル・デ・レガスピが、1565年2月13日にセブに上陸し、71年6月24日にはマニラに遠征した後の頃だ。当時の資料にはこの地震に関する若干の記述がある。もちろんマグニチュードは記されていない。マグニチュードは1935年に、米国のカリフォルニア工科大学の地震学者が発案したものだからだ。

 スペイン人、アロンソ・デ・パレデスの記載では、地震によりヤシの家々は軒並み倒壊し、火に包まれたという。

 「午後8時、雲一つない。夜空には月が輝き、大気も穏やかだった。突然、大地が逆上したように震動を始めた。まるで住民をすべて地中に埋めようとしているかのようだった」と、彼は記している。石造りの家も揺れ動き、神に慈悲を求めるように、動物の鳴き声や悲鳴が響いた。マニラ大聖堂もイントラムロスの教会も倒壊した。

 記録には450人が死亡とある。死者が少ないのはスペイン人の遺体のみが数えられ、その他は無視されたからだ。後の記述でも、スペイン人推定600人が死亡、3千人が負傷したとされている。

 後世の調査では、この地震の震央はヌエバエシハ州カバナトゥアン市と判明した。1991年にピナツボ山の噴火の被害を受けたところである。(20日・ブレティン、フロロ・メルセネ氏)

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