元大統領の政治責任
アキノ政変から21年
二十一年前の一九八六年二月、「エドサ」と呼ばれる民衆蜂起があり、マルコス独裁政権が崩壊した。エドサ後、約三十の国々で独裁政権が倒され、いわゆる民主主義体制がこれに取って代わった。民主化の潮流が強まる中、政変前まで主婦にすぎなかったコリー・アキノ元大統領は「エドサ」を自らの代名詞として使うようになった。
エドサの中心人物とされるアキノ元大統領だが、彼女は政変で重要な役割を何一つ果たさなかった。八六年二月二十二日、エンリレ国防長官らが国防省に立てこもった際、アキノ元大統領は五百キロも離れたセブ州にいた。翌二十三日に首都圏へ戻ったものの、歴史に残るような演説や行動に出ることはなかった。
二十五日午前には、情報戦専門家のラモス元大統領が「マルコス大統領が国外へ脱出」との偽情報を流布。これを信じた民衆がエドサ通りなどで大騒ぎを始め、アキノ元大統領が大統領就任を宣言したわけだが、政変直前の大統領選の集計結果は「六十万票差でマルコス大統領当選」で、アキノ新政権は選挙結果を無視して樹立された革命政権だった。
一九九二年までの在任中、アキノ元大統領は左派と右派の間でほんろうされ続けた。国軍が大きな犠牲を払って拘束した比共産党幹部らを次々に釈放し、一方で国軍のクーデター未遂に脅かされた。経済政策では、一日十二︱十八時間に及ぶ停電を発生させ、国民を太平洋戦争前の生活へ引き戻した。比は、今もアキノ政権の残した「負の遺産」を背負い続け、国民一人当たりの経済成長はゼロのままである。その意味でエドサは大いなる失敗であり、政治責任はアキノ元大統領が負わねばならない。 (2月28日・タイムズ)