「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
33度-24度
両替レート
1万円=P3,800
$100=P5870

12月29日のまにら新聞から

与党の「失われた10年」 ばん回へ向け地ならし成功

[ 1550字|2006.12.29|社会 (society)|検証2006 ]

憲法改正

徹夜審議の末、改憲議会招集を議決した下院本会議=12月6日夜写す

 現共和国憲法が制定されたのはアキノ政変(エドサ革命)翌年の一九八七年。政府開発援助(ODA)など外資を巧みに利用しながら「開発独裁」を実現したマルコス政権を反面教師に、大統領の再選禁止に加えて国会議員・首長らの多選制限、外資の出資制限や参入分野の規制などが定められた。

 「民主化」の名の下に、独裁と外資支配の再発防止策を具現化した現憲法だったが、制定からわずか十年足らずで改憲の動きが表面化した。改憲運動の主導者はラモス大統領=当時、在任期間九二—九八年=とデベネシア下院議長=同。有権者請願・署名による改憲で、大統領再選に道を開き、国会議員・首長らの多選制限を撤廃しようとした。外資出資制限の緩和など経済関連条項も改正対象となった。

 当時、比はアキノ政権末期のクーデター未遂や電力危機の影響でマイナス成長に陥り「アジアの病人」とやゆされ、対照的にタイなど周辺国は投資ブームに乗って急成長を遂げていた。大統領再選の容認などアキノ政変以降の「民主化」に逆行する改憲運動の背後には、政権の安定化と外資の積極導入で国の立て直しを図ろうとする思惑があった。

 ラモス政権下の改憲運動が本格化したのは九五年から九六年にかけて。政府系団体が六百万人分を超える有権者署名を中央選管に提出し国民投票実施を迫った。国会でも改憲議会招集の動きが活発化したが、①故シン枢機卿やアキノ元大統領を中心とする改憲反対運動②国民投票施行法の不備を理由に有権者請願・署名による改憲発議を認めなかった最高裁判決(九七年三月)③九七年七月に始まったアジア通貨危機——などに阻まれた。

 さらに九八年五月の大統領選では、ラモス大統領の後継候補、デベネシア下院議長がエストラダ副大統領=当時=に惨敗。ラモス政権の描いた「改憲による復興計画」は棚上げを余儀なくされた。

 ラモス政権下の改憲運動開始から十年が経過した二〇〇六年。タイ、マレーシアなどの背中が遠のく中、同政権直系のアロヨ現政権は改憲実現へと突き進んだ。アロヨ政権の背を押したのは、「失われた十年」を取り戻そうとするラモス元大統領(78)とデベネシア下院議長(70)だった。

 改憲手法は十年前と同じ有権者請願、改憲議会方式の二本立て。改憲の主題は「大統領の再選容認」から「議院内閣制への移行」へと模様替えしたが、与党による国会支配で政権安定化を目指す本質部分は同じ。国会議員・首長らの多選制限撤廃も十年前と変わらない。そして、やはり十年前と同様、カトリック教会を中心とする反改憲運動と最高裁の違憲判断が現政権の前に立ちはだかり、年内の改憲発議断念へと追い込まれた。

 現政権は一見、ラモス政権と同じ轍(てつ)を踏んだように見えるが、少なくとも二点で改憲の早期実現へ向けた地ならしに成功した。

 一点目は下院院内規則の修正。改憲関連議案に限って委員会審議などを省略する内容で、本会議の議決だけで改憲議会の招集強行が可能となった。下院議長を中心とする与党勢は十二月七日、徹夜審議の末に改憲議会招集を決めながら、わずか四日後に招集断念を発表して刀をさやに収めた。しかし、その手は今もつかにかかったまま、抜刀の機会をうかがっている。

 もう一点は国民投票施行法をめぐる最高裁の新判断。一九九七年の判決で最高裁は、同法の不備を理由に改憲の是非を問う国民投票実施を認めなかったが、〇六年十一月下旬には「(同法は)有権者請願による憲法修正のため十分かつ適切な法律」と前判決を覆す判断を示した。「議院内閣制移行は憲法の『改正』か『修正』か」という議論は残るものの、新判断により有権者請願方式の改憲発議と国民投票実施へ向け視界が大きく開けた。 (酒井善彦)

社会 (society)