戦後60年 慰霊碑巡礼第3部ルソン編
思い出引きずって
ルソン島中部タルラック州バンバン町。ヤシの木、水田、イモ畑を縫う田舎道に真っ赤な鳥居が突然現れた。神風特攻隊を指揮した大西瀧治郎海軍中将の慰霊碑が立つ。後ろの斜面を上ると、すぐ第一航空艦隊司令壕(ごう)跡が黒々と口を開けている。特攻機が飛び立ったパンパンガ州マバラカット町から北へ車で約十分だ。
壕に通じる鉄門を開けると、冷たく湿った空気が迎えた。壕の高さは約一・八メートル、幅約二メートルで、全長約四十メートル。米軍が反攻して来た一九四四年ごろ、日本海軍は空爆に備えて地下に司令部を移した。レイテ沖海戦ですべての空母を失い、ルソン島が唯一の「不沈空母」に変わっていた。
司令壕の跡地一帯を購入して住んでいる人がいた。少年の日に日本占領時代を経験したジョニー・マニポン氏(69)である。
壕に入ってすぐ簡易ベッドやハンモック、いす、ラジオ、電気スタンド、扇風機が置かれている。マニポン一家の居間と化している。「冷房不要だろう。昼寝や寝苦しい夜にここで眠るんだ」とマニポン氏の息子、マリオンさん(32)はベッドに横たわってみせた。
「あなたは日本人だから」と断って、声を落とし「隠しているけど八本のトンネルで構成されている」と語る。どうやら、今も壕を掘っているらしい。「山下財宝」を探しているわけではないと言い訳した。
近くの家の子が「お金をくれ」と手を出すと、マニポン氏は「あっちへ行け」としかった。「比人はモノ作りをしない。『くれ、くれ』と言えばもらえると思っている。生きることはそんな簡単じゃない。ここは昔、何もなかった。労力を費やせば畑になるのに努力さえしない」と厳しく同朋を批判した。
日本軍侵攻のうわさが広がると、マニポン氏の小学校では比人教師が日本語の初歩を教えだした。それが戦争の始まりだ。
「背の低いO脚の軍人は初めは奇妙に見えたが、本当に勤勉だった」とマニポン氏。物ごいをしかった理由がわかった。
マニポン少年は日本軍の駐屯地を出入りした。司令壕周辺に畑を作るため、住民が駆り出されたが、マニポン少年は「カラバオ(水牛)を追うのが仕事だった」と懐かしそう。
しかし、凶暴な日本軍の記憶も鮮明だ。「実は、父親とおじが抗日ゲリラだった」。「マカピリ(比人の日本軍協力者)から情報を得た憲兵隊が突然、家にやってきた。物音で目を覚ますと、父とおじは頭から血を流し、顔が変わるほど殴られていた」。
マニポン氏は苦々しい顔をしたが、「比人を裏切るマカピリと日本軍に逆らっていた父の方に責任がある」と怒りの矛先を日本軍に向けなかった。
マニポン氏は一九八六年にこの土地を購入した。「買ったのは山下財宝のためじゃない。幼いころの思い出を引きずっていたんだ」。「比人は日本軍の壕とか慰霊碑と聞くと、山下財宝に結びつける」と真顔で嫌がった。
戦争後はクラーク米空軍基地内の食料品店で働いた。今は隠居生活を送るマニポン氏。外国軍隊との「切れない関係」について、「パンパンガ地方そのものだよ」と自嘲した。(藤岡順吉)