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6月19日のまにら新聞から

戦後60年 慰霊碑巡礼第2部レイテ編

[ 1437字|2005.6.19|社会 (society)|戦後60年 慰霊碑巡礼第2部レイテ編 ]

現役の旧日本軍トラック

オルモック市郊外でサトウキビを運搬する旧日本軍のトラック

 戦没者を弔うべく建立された慰霊碑だが、祖父や父が日本軍と戦い、信仰も価値観も異なる住民の間に立っているのが現実の姿だ。日本からの慰霊訪問団の落とすおカネや利得の方に、碑周辺の人々が関心を持つのが人情というのだろう。

 北部パロ町サンホゼ・バランガイ(最小行政区)で車を降りて慰霊碑の場所を尋ねた。通りかかった人の指差す方向へ歩いた。山のふもとに近づくと、子供たちがそばの集落から慰霊碑のある方に走っていくのが見えた。

 第十六師団三三連隊(三重県津市)の戦没者供養塔が立っていた。先ほど、見た子供四人が慰霊碑へと続くコンクリートの階段をほうきで掃除したり、階段横の草を刈っている。

 ところどころ破れたシャツを着た子供たちは最初はちらちら見ていたが、やがて明るい笑顔を振りまいた。階段はあちこちひび割れしていて、手入れが行き届かなくなっていることが一目でわかる。登り切った石畳も大きく割れていたが、地震によるものだそうだ。白ペンキで塗られた慰霊碑は竹やぶに囲まれ、日本の趣を残しているが、碑の下部はペンキが剥げており、荒廃も遠くあるまい。

 慰霊碑への階段脇にあるアカシアの木陰から男が現れた。子供たちの父親、ボニファシオ・マニルヒッグさん(37)だった。ここの地主であるいとこを頼ってミンダナオ島から二年前に家族を伴って引っ越してきた。現在、この慰霊碑を管理しているという。

 日本人は来るが、滅多には来ない。子供たちに掃除をさせるのは「ただ、きれいにしたいだけ」と言う。

 純粋な動機に感激したが、後になって長年住んでいる人から「(自称、管理人が)よく使う手口なんです。訪問者が来るとすばやく掃除を始めて、見返りを期待する」と説明を受けた。慰霊に訪れる日本人を発見すると、即席の管理人になりすます。「お礼」への期待があるからだ。ゆがんだ見方かも知れないが、子供たちが走ったのは、わたしたち一行を発見した父親の指図かもしれない。

 階段の一番下には大きなアカシアの木が生えていた。根元には直径一メートルほど深く掘られた穴の跡が二つ。「『山下財宝』を探して慰霊碑周辺を掘りあさった奴の仕業だろう」と、ボニファシオさんは乾いた笑い声を上げた。

 「山下財宝」とは違って、戦争の遺物が実際、住民の役に立っている姿を見た。旧日本軍が残していった軍用トラックである。

 オルモック地域には広大な砂糖農園が拡がっている。

 サトウキビ運搬用の大型トラックが出入りする。どれも年季の入った車両だが、ひときわ目立つのが旧日本軍トラックだ。

 車体は青や赤に塗られているが、ボンネットの形や荷台の構造で旧日本軍トラックと明瞭に分かる。ペンキの剥がれからサビついた鉄骨が見え、年代をしのばせる。元の右ハンドルからフィリピン式の左ハンドルに器用に改造してある。

 「大体、五十台は今も現役だ。米国製より長持ちする。まだまだ使えるよ。エンジンを替えたのが多いが、戦争当時そのままのも走っている」。農園近くの車両整備工場で働く修理工、ロドリゴ・ブソン(48)さんが教えてくれた。

 運転手のロベルト・ペピトさん(49)さんは日本軍トラックの持ち主だ。赤色に塗ったトラックは二十年使っているという。運転座席はクッション二枚を敷いただけの鉄の箱だ。「エンジンは一九六七年製フソウの物に換えたけど、まだよく走る。あと二十年はいけるよ」といかにも満足げだった。(藤岡順吉、続く)

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