「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
30度-24度
両替レート
1万円=P3,730
$100=P5830

6月15日のまにら新聞から

戦後60年 慰霊碑巡礼第2部レイテ編

[ 1380字|2005.6.15|社会 (society)|戦後60年 慰霊碑巡礼第2部レイテ編 ]

慰霊碑ガイドで子育て

長男ヒデキさんと一緒のトミ子・ベルスサさん

 慰霊碑ガイドとして生計を立ててきたトミ子・上原・ベルスサさん(72)も沖縄出身だ。夫の生まれ故郷、レイテ島北西部ビリヤバ町に来たのは、同じ沖縄出身の秀子・オカンポさんより十年後の一九六一年。とげとげしい反日感情をぶつけられることはなかったが、やはり戦争とは切っても切れない人生だった。

 戦後、沖縄本島南部は米軍基地で埋め尽くされたようだった。上原トミ子さんは那覇市内の米軍基地にあるフィリピン人労務者居住施設で洗濯係をした。四十五人分の衣類を洗う毎日だった。

 トミ子さんはそこで機械整備工をしていたボニファシオ・ベルスサさん=当時(25)=と知り合い、恋に落ちた。十八歳だった。ボニファシオさんとの間に二人の子供が生まれたが、家族の反対もあって結婚をためらっていた。両親や親類から「フィリピンは危険だ」と言われ、半分以上、信じていたからだ。

 ある日、ボニファシオさんが「子供を比に連れて帰る」と言い出し、それならと気持ちを変えた。子供が四人になった一九六一年五月、家族と一緒に来比した。

 ビリヤバ町は海岸とヤシの木が生い繁るだけの田舎町。那覇市という都会育ちのトミ子さんは「どうして、こんな所に来てしまったのか」と悔やんだ。帰りたくて毎晩泣いた。

 ビリヤバ町周辺は日本軍がレイテ戦で最後のとりでにしたカンギポット山に近く、多くの日本兵が逃げ込んできたという。夫は同町で日本兵に銃で頭を殴られ、右上頭部が陥没していた。トミ子さんが後に聞いた話だが、「日本人にやられたのに、日本の女をもらってきた」と町民からからかわれたという。

 夫の仕事の都合で三年後、州都のタクロバン市へ引っ越した。言葉がセブアノ語からワライ語に変わった。「日常会話が満足に通じない苦しみが分かっていたから、私は行きたくなかった」とトミ子さんは言う。いつのまにかビリヤバ町が第二の古里になっていた。

 一九七一年、厚生省(現厚生労働省)がレイテ島の遺骨収集作業を開始、トミ子さんはカンギポット山での遺骨探しを頼まれた。夫と一緒に参加した。

 一九七二年二月、夫が急死した。途方に暮れた。「あの時は真剣に日本に帰ろうと思いました。先が見えなかったものですから」とトミ子さん。しかし、遺骨収集が縁で日本から訪れる慰霊団を案内する仕事が徐々に増えてきた。

 この時期、レイテ島では慰霊碑が次々と建立された。次女には大学の学費が出せず、昼間働いて、大学夜間部を卒業してもらった。だが、下の長男、次男は、慰霊碑案内の仕事が順調になったおかげで大学を卒業させた。「ガイドの仕事がなかったら、どうにかなってましたよ」とトミ子さんは振り返る。もしかすると、日本に帰っていたかも知れない。

 沖縄という戦災の島から来た日本人妻は、海を挟んだもう一つの戦災の島で戦没者を弔う人々を助けることで生計を立てた。歴史の皮肉と言えるかもしれない。

 トミ子さんは一九八六年に日本に帰った。二十五年ぶりの帰国。あれほど帰りたかった日本だが、「家族もこちらにいるし、もう帰らなくてもいい」。今後の帰国予定はない。

 「フィリピンで家族に囲まれているから」というトミ子さんの笑顔には人生への満足感があふれていた。

 現在、タクロバン市で四人の子供、十二人の孫、四人のひ孫に囲まれて生活している。 (藤岡順吉、続く)

社会 (society)