戦後60年 慰霊碑巡礼第2部レイテ編
共存する日米の慰霊碑
太平洋戦争の最激戦地の一つ、レイテ島。フィリピン全土での日本軍戦死者は約五十二万人、うち約八万人がこの地で命を失った。日本兵慰霊碑のほぼ二〇%がこの島に集中しているゆえんだ。戦後すでに六十年、戦争を経験した世代が去り、戦争を思い出させる物も消えてゆく中で、碑の周辺に住む人々の記憶だけが日比関係史の陰の部分を照明する。レイテの現在と過去をタイムトラベルした。
(藤岡順吉)
北レイテ州ドゥラグ町。国道が州都タクロバンからヤシの樹列を縫うように走る。その道沿いの集落に嶋本忠男さん(60)=兵庫県淡路島出身=が住んでいた。
終戦の年に生まれた嶋本さんは三年前、妻の郷里であるドゥラグ町に定住した。この土地のゆったりと流れる時間とおだやかな暮らしを愛している。
だが、ドゥラグの町には嶋本さんが「来るまで知らなかった」という血塗られた戦争の歴史が隠されていた。「レイテがかつての激戦地とは知っていたが」と嶋本さんは浮かない表情だった。、
ドゥラグ町の隣、パロ町の海岸は米軍に「レッドビーチ」と呼ばれ、太平洋戦争で連合軍のフィリピン反攻作戦の火ぶたが切られた場所である。一九四四年十月二十日、マッカーサー太平洋地域米軍総司令官率いる連合軍部隊は大挙、レッドビーチの砂浜に上陸作戦を敢行、平和な島は血と鉄の戦場と化した。約八万人の日本兵が死亡したレイテの戦闘はここから始まった。
現在、この地はフィリピンを日本の占領から解放した司令官の武功をたたえて「マッカーサー・ランディングパーク」という公園になっている。園内には上陸するマッカーサー大将と側近ら七人の金色に光る像が立っている。
マッカーサーはじめ比亡命政権のオスメーニャ大統領らの視線は日本軍が防備していた島央のヤシの森に向いている。像の背後には海が拡がり、遠くサマール島を展望する。
レッドビーチから南へ十五分ほど走り、ドゥラグ町に入ってすぐの国道脇に「ヒル120」(百二十高地)がある。日米両軍が激しい攻防戦を繰り広げたレイテ島戦を象徴する古戦場である。文字通りの丘陵地で、斜面には、飛来する銃弾を避けて地面に張り付く米兵や勝利して星条旗を掲げようとする米兵のコンクリート像が並ぶ。
頂上の平地には直径二・五メートルほどの大きな米兵の緑色のヘルメット。そこから見渡すと、西へ向けて延々とヤシの森が続く。米軍は六十年前、日本軍を山地に追い込みながら西進していった。ヒル120のふもとには米兵の慰霊碑と伴に、日本人戦没者の慰霊碑が建立されている。
嶋本さん宅はヒル120から目と鼻の先にある。妻の母、カタリナ・アシス(74)は戦時中、両親が家を日本軍に貸していたという。カタリナさん一家を含めた集落の人々は「(占領されていたのだが)日本軍と平和に共存していた」と話してくれた。
しかし、米軍の上陸作戦とともに集落に緊張が訪れた。カタリナさんは「日本兵の死体が町のあちこちに転がっているのを目撃した」と語った。やがて、日本兵は山奥の方に逃げて行ったという。おそらく集落の人たちにも大きな被害が出たのだろうが、カタリナさんは黙して語らなかった。
娘が日本人と結婚し、一緒に住むことになったことについて、カタリナさんは「違和感はない。昔も村で日本人と一緒に住んでいたから」と微笑した。
嶋本さんにこの話を伝えると心の底から驚いたようすだった。「(義母から)一度も聞かなかったし、ほかの誰からも聞いたことがなかった」。そう言って考え込んでしまった。
妻と知り合ったのが十四年前で、二人の子どもも育っている。嶋本さんはこの沈黙をどう解釈していいのかわからないようだった。
ドゥラグ、パロ、ブラウエンの三つの町で、日本人戦没者の慰霊碑は少なくとも五つはある。ヒル120にある日米の慰霊碑の裏側は鉄くずなどが山積みになっていた。慰霊碑前でジャンクショップを営む男性が鉄板などの商品や道具を置いているのだ。
「訪問者が多い八月から十月には片付ける。それ以外はあの通りさ」とそっけない。碑がなければ、さらに道具置き場を広げられるのにと思っている。「わたしたちには、商売に邪魔なだけだからね」。
フィリピン人の温かい人情に引かれて移住した定年退職者すら覚えていない戦争。その犠牲者を悼む慰霊碑が現地の人々の生活の一部になっている。 (続く)