移民1世紀 第3部・新2世の闇と未来
「日本人の名前は嫌だ」
二つの国の近さを測る尺度は歴史や政治・経済的関係、地理的距離などいろいろとある。「結婚」という物差しで測った時、フィリピンは日本にとって最も身近で、関係の深い国の一つになろうとしている。一組の男女が一緒になれば、親類縁者、知人ら数十人単位のつながりが生まれる。その結び付きは「経済連携」などより、ある意味でとても強く、そして危うい。
厚生労働省の人口動態統計によると、日比間結婚の件数は一九九〇年代半ばから年間六千—七千件を推移してきた。二〇〇二年には七千七百三十四件に達し、いわゆる国際結婚全体の約二二%を占めた。日比カップルの間に生まれた子供の数は、国別調査の始まった九二年以降だけで約六万人に上る。
ただ、この結婚件数は日本の役所が把握し得る戸籍上の数字だけ。子供の数も両親の婚姻と自身の出生が戸籍に記載されている「日本人」に限られている。比国内で結婚しておきながら日本の役所に届けていないケース。そして、日本人の父親から見捨てられ、比で生きることを余儀なくされた「新二世」の子供たちの大部分は含まれていない。
カビテ州ダスマリニャス町に住むミック君(13)と妹マイコちゃん(11)も日本の統計には現れない新二世たちだ。父親は千葉市出身の日本人男性(52)。日本人の正妻がおり、重婚になることを知りながら、二人の母親で元エンターテイナーのリンさん(35)と一九八九年八月に比国内で結婚した。
当時二十歳だったリンさんは言う。「(ミンダナオ島)ダバオの実家では、両親と三人の妹、弟一人が私からの仕送りを待っていました。十万円単位で小遣いをくれる男性と結婚すれば妹や弟を学校へやれる。日本に正妻と私より三つ年下の娘がいることも知っていました。だけど、家族の将来が約束されると思い結婚しました」
独身証明書のない既婚の外国人は比国内で結婚できない。このため、市役所の役人にわいろ一万五千ペソを払って「本物の婚姻証明書」を作ってもらった。日本の役所には無論、届けることができなかったが、比国内では「本物の夫婦」。ミック君ら二人も比国民として出生登録された。
日本にいる妻子を捨ててまでリンさんとの重婚、比移住に踏み切った男性。しかし、六年後の九五年四月、リンさんと子供二人を置いて日本へ帰国、音信を断ってしまう。
父と別れて八年。百六十センチ近くにまで背が伸びた長男のミック君は、帰国前に父から聞いた言葉を今も覚えている。「もし日本へ帰っても、お前が十三歳になったら必ずここへ戻ってくる」。男性は自分が十三歳の時に父親から初めて腕時計をプレゼントされたことを語り、「同じようにお前にも腕時計を持ってくる」と約束した。
十三回目の誕生日は二〇〇三年三月十二日。約束の日は既に過ぎてしまったが、「お父さんがいたころに一緒に食べた高級アイスクリームをもう一度食べたい。今は一本五ペソのアイスキャンディーばかりだから——。お父さんが腕時計を持って来るのを今も待ってる」と言う。そんなミック君だが、家計の都合で私立の小学校から公立校へ移ったころ「日本人の姓は嫌だ。お母さんの姓に変えてほしい」と言い出したことがある。姓が原因で友達にいじめられたからだという。
「日本の姓を名乗り続ければ、お父さんと会った時にすぐにあなただと分かってくれる」
そう諭したリンさんも実は、日本の姓を名乗らせ続けることに抵抗感を覚え始めている。学校の父母の集まりに出席した時のことだ。夫の姓を名乗った時、他の出席者のささやく声が耳に入った。「日本人の子供なのにどうして公立で勉強しているの」「日本人に置いて行かれた『ジャパゆき』?」と。
以後、父母の集まりには一度も出席していない。(つづく)