移民1世紀 第3部・新2世の闇と未来
「日本人2世」との溝
戦前・戦中生まれの日系二世と同様、日本人を父親に持ちながら、西ネグロス州バコロド市在住のマイケルさん(26)は「私は日系人なのでしょうか」と自問する。二〇〇三年四月、同市でフィリピン日系人会連合会の全国大会が開かれた時も、消息不明の父親の手掛かりを求めて足を運びながら「日系人会に入っていないから」と会場の扉を開くことをためらった。
父親と生き別れるなどした戦後生まれの「新日系二世」は日本と自身を結ぶ接点がないため日系人としての意識が希薄だ。マイケルさんの場合も生後二カ月の時に父親(51)=東京都出身=がマニラ市の自宅から姿を消したため、母親のデリアさん(55)から伝え聞く話だけで父親像を結んできた。マニラ市役所発行の出生証明書の父親欄には、当時二十五歳だった日本人男性の名前が記されている。しかし、男性が出生証明書を取得して日本国内の役所に届け出た形跡はなく、遅延登録や養子縁組などをしない限り日本国籍は取得できない。
新二世とは対照的に、戦前・戦中生まれの日系二世は、明治・大正生まれの父親や日本人学校の教育から強烈な日本人意識を受け継いだ。比人の迫害を逃れるため「日本人の子」であることを隠しつつ「日本人」を誇りに戦後を生き抜いた。
一九九八年の外務省調査で生存が確認された二世は約二千三百人。戦時中の混乱で、うち約千九百人は戸籍に名前が記載されていなかったり、本籍地不明の状態だった。その後、日本国籍の確認・戸籍記載作業が進み、戸籍未記載の二世は約五百人まで減少している。
二世の国籍問題が戦後半世紀を経て解決へ向かおうとする中、戸籍に記載されない新二世が増え続ける歴史の皮肉。現在、比国内には十五の日系人会があるが、会員は「戦前・戦中に比へ渡った日本人の子孫」が中心で、日系人会の存在を知り、父親探しなどで支援を求めようとする新二世は一握りにすぎない。
日系人会側も新二世に救い手を差し伸べようとはしていない。会員の関心はもっぱら三、四世らの日本出稼ぎが実現するかどうかで、会の活動自体も出稼ぎ者の送り出しが軸になっている。
二世のカルロス寺岡比日系人会連合会会長(73)は、二世と新二世を「日系人」という言葉で一つにくくれない、くくりたくない二世たちの心中をこう代弁する。
「もちろん新二世も日系人でしょう。(戦前・戦中生まれの)二世と同様、戸籍に名前が載っていない子もたくさんおります。同じ日系人として助けなければならないと思うが、私たちとは全然違うでしょう。(新二世の名前が戸籍に載っていないのは)戦争ではなく個人の責任だから。私たちは日本人の子供で父を知っていた。新二世は父を知らない。これは問題です。日本人でありながら比人として生きるしかない」
日本人としての誇りを持ち続け「全然違うでしょう」と言い切る二世。父親の顔さえ知らず「日系人でしょうか」と自問する新二世。マイケルさんたち新二世の多くは、「日系人」というアイデンティティさえ持てず、日比両国の狭間で「忘れられた日系人」になろうとしている。 (酒井善彦)