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移民1世紀 第2部・ダバオで生きる

[ 1451字|2003.4.22|社会 (society)|移民1世紀 第2部・ダバオで生きる ]

2世たちの闘いと救済

5年ほど前に新築された長男宅前に立つ甲斐さん(左)。長男は10年前から現在まで日本出稼ぎ中だ

 ダバオ市郊外の新興住宅地に「カイ・アベニュー」と呼ばれる通りがある。日系二世の甲斐美智子さん(72)は「冗談ですよ」と照れ笑いを浮かべるが、二百メートル足らずの通りを行くと「甲斐」と呼ばれる理由がよく分かる。

 まだ空き地の目立つ通り沿い。一つ、また一つと新築または新築中の邸宅が続く。「これが長男、それは長女。あそこは二男の・・」と人差し指を左へ右へ振る甲斐さん。いずれも日本へ出稼ぎに行っている子供五人の自宅だ。

 ダバオ日系人会(会員約四千八百人)のジュセブン・オステロ会長(34)によると、三、四世ら会員約千七百人が日本へ出稼ぎ中。家を新築するなど日系人の生活状況は確実に好転しているが、三世でもある同会長は「私たちは二世が闘ってくれたおかげで日本へ行けることを忘れてはならない」と言う。

 「二世たちの闘い」とは、一九九〇年代半ばに本格化した国籍確認運動を指す。一九九〇年の改正入管法施行で、ブラジルやペルーの日系人と同様、比の日系人にも定住ビザが発給されるはずだったが、戦争はここでも日系人社会に暗い影を落とした。

 戦前から現在まで日系人社会が維持されてきた南米とは違い、比の日系人社会は戦争により崩壊。戦地に残された比の日系人の大部分は、迫害を避けるために戸籍謄本や写真など日本人であること証明する書類を焼き捨てた。二世が「私の父は日本人です」「私は日系人です」と訴えたところで客観的に証明する書類は既になく、日本政府は本人確認が困難なことを理由にビザ申請を門前払いし続けた。

 日本政府の対応に変化が出たのは戦後半世紀を経た九五年。二世たちが日本に集団帰国し、関係各省や国会議員に日本国籍の確認やビザ発給を求める陳情を繰り返した「闘い」の結果だった。外務省は同年十一月に民間団体に委託する形で全国調査を実施し、比全土に約二千三百人の二世がいることを初めて確認。また、ビザ取得可能者を限定し「偽装日系人」混入を防止するため、戸籍に名前が記載されている二世の家系図作成も進められた。

 ダバオ日系人会所属の二世は現在九百二十七人。うち二世の出生が戸籍に記載されているケース、つまり全国調査の恩恵を直接受けた人は百四人にすぎない。

 残り約九割は、・両親の婚姻記載だけ(四百十九人)・婚姻、本人の出生とも記載なし(四百四人)・・で占められている。いずれも戦時中に輸送船が沈められるなどし、婚姻届や出生届が日本まで届かなかったケースだ。

 ・の場合、出生証明書などで親子関係を証明できれば三世まで日本就労が可能。問題は、・の四百四人で、周りの日系人が社会の階段を徐々に上っていく中で、置き去りにされようとしている。全国十五の日系人会で構成される比日系人会連合会(カルロス寺岡会長)によると、同様の境遇にある二世は全国で約六百人に上るという。

 同連合会は関係団体を通じて、二世の記憶やわずかに残った書類から得た情報を戦前の海外渡航者名簿と照合、一世の名前、出身地を特定する困難な作業を続けている。しかし、記憶の不確かさなどから特定に至ったケースはまだ二十件足らずにすぎない。

 二世の大半は七十歳以上。寺岡会長(72)は「日本政府は(本人確認などのために)書類を求めるが、日本人だと分かると殺される状況下で書類など残っているはずがない。置き去りにされている二世を救わない限り、日本人の残留問題は解決したとは言えない。私が死ぬ前に何とかしたい」と焦りを隠さない。(つづく)

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