「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

本日休刊日

4月21日のまにら新聞から

移民1世紀 第2部・ダバオで生きる

[ 1395字|2003.4.21|社会 (society)|移民1世紀 第2部・ダバオで生きる ]

耕地、護身のため結婚

日本を初めて訪れた時の写真を見る中山さん(左)。戦争中、病院職員として徴用され「日本政府は私たちが生きている間に未払い分の給与を払って欲しい」と訴える

 戦前も現在と同様、外国人の土地所有は認められていなかった。ダバオに入植した日本人移民はバゴボなど少数民族の比人女性と結婚、女性の家族から土地を分け与えてもらい、妻名義にする形でマニラ麻の栽培地を拡大していった。

 日本国内の地位や財より、栽培地の広さがものを言う時代。国際結婚には「異国で生きるため」「耕地のため」という現実的な側面が多分にあり、バゴボ族長の娘と結婚して広大な土地を一手に任され、邦人社会でのし上がった移民も少なくなかった。

 ダバオ市カリナン在住の日系二世、山口八重子さん(80)の父與市さん=福岡県久留米市出身=もやはり、バゴボ民族の女性と結婚し二十四町歩(ヘクタール)の耕地を手に入れた。比人の麻山労働者十五人を雇い、ダバオの町中では食堂も経営。子供は八重子さんを頭に三男七女をもうけた。

 日本人学校に通いながら何不自由なく育った八重子さんだったが、敗戦直後「身を守るための結婚、愛のない結婚」を強いられることになる。

 夫は元麻山労働者の比人。父與市の経営する麻山で働いていた。戦前は経営者の娘と使用人という立場。互いに顔すら知らなかったが、「身を守るため一緒になれ」という母の強い勧めに従った。

 戦争を生き延びた父は一九四五年十二月、弟一人と妹三人だけを連れて日本へ引き揚げ。別れ際「生きている限り妹たちの面倒をみなさい」と八重子さんに言い残した。

 「財産はすべて没収され、町を歩いていると『日本人がまだおるか』と殴りかかられる。仕方なく同せいを始めましたが、日本語しか話せなかったため夫が何を話しているのかも分かりません。正式に婚姻届を出したのは同せいを初めて十年後、四人目の子供ができてからでした」

 「父と一緒に日本へ帰りたかった」「いつか日本へ帰りたい」。胸に秘めた思いのため、十年もの間結婚に踏み切ることができなかった。

 戦時中、ダバオ市カリナンにあった陸軍野戦病院の看護婦として徴用された八重子さん。この時一緒に働いていた日系二世の中山良子さん(72)も敗戦直後、中国系比人との「身を守るための結婚」を強いられた一人だ。当時わずか十六歳。やはり日本語しか話せなかったが、中国語やイスラム教徒の言葉を必死で覚え、「中国人商人の妻」になりきった。

 戦後三十五年がたとうとしていた八〇年に訪日、父幸二郎さん=佐賀県上峰村出身、一九四一年七月死亡=の実家を訪ねた。生まれて初めての日本、そして父の実家だったが、待っていたのは「良子さん、何しに日本へ来たの。遺産の分け前もらいに来たの」といういとこたちの言葉。そして、ダバオで戦死した兄邦敏の勲章「勲八等白色桐葉章」一つだった。「ダバオには土地がたくさんある。遺産なんていらない」と兄の勲章を手に比へ帰った。

 戦後を比で生き延びるため、「日本」を封印した女性二人。日本とのきずなは九〇年代に日系人の日本出稼ぎが盛んになったことで、再び強まろうとしている。山口さんの子供六人と孫十二人は香川県などで働いている。孫のうち二人は日本人と結婚した。中山さんの五女も約十年前に日本人と結ばれ日本に滞在中だ。

 「いろいろありましたが、私の父は日本人ですから。娘が日本人と結婚してくれるとやっぱりうれしいですよ」。厳しい表情で戦後を語り続ける中山さんのほおが一瞬緩んだ。 (つづく)

社会 (society)