移民1世紀 第2部・ダバオで生きる
母の国籍が運命分ける
ダバオのマニラ麻産業は太田興業(一九〇七年設立)、古川拓殖(一四年設立)の二大回収・加工会社を中心に発展した。日本人移民は先を争うように原生林を切り開き、栽培面積は最大八万ヘクタール、生産量は比全体の六割を占めるに至った。
在留邦人の人口も四千六百(二五年)、一万二千五百(三〇年)、一万三千五百(三五年)、一万八千六百(四〇年)と増加。「ミンタル」「カリナン」など主な開発拠点には日本人町が形成され、町ごとに日本人小学校も建てられた。学校数は最大で十三校、児童数は千五百人以上に達したという。
ダバオ生まれで、ダバオ日本人小学校に通っていた内田達男さん(75)‖東京都三鷹市‖によると、クラスメート二十八人のうち内田さんら二十四人は日本人を両親に持つ「移民二世」。残り四人は日本人の父と比人の母を持つ「日系二世」だった。
同じ教室で一緒に学んだ二世たち。戦中から戦後にかけ、母の国籍の違いがその運命を二つに分けた。移民二世は進学や敗戦直後の強制送還で日本へ帰国。一方、日系二世の大部分は戦前・戦中に父を亡くし、母とともに戦地フィリピンに残留、比の名前を名乗るなどして「父の国・日本」を封印した。
同小学校に通っていた移民二世の並里裕人さん(70)‖沖縄県那覇市‖には、兄弟同然に育った日系二世の幼なじみがいる。ダバオ市在住の与儀安二‖比名マニュエル・ヨギ‖さん(71)。与儀さんの父三郎さんは比人女性と結婚、麻山経営の成功者として名を知られた存在だった。しかし、旧日本軍の通訳をしていたためにゲリラに狙われ、四五年一月に射殺されてしまう。
戦後、敵地に残された与儀さんは比人の迫害を逃れるため、名を変え山へ逃げ込んだ。麻山など財産はすべて没収された。並里さんは開戦直前に沖縄へ帰ったものの、母は既に病死、父も敗戦直前にダバオで亡くなった。互いの生死すら分からないまま、「敵国民」、「戦争孤児」として戦後を生きた二人。再会を果たしたのは、敗戦から約三十五年後の八〇年代に入ってからだった。
並里さんは再会当時の与儀さんの生活をこう振り返る。「麻山労働者として戦前そのままの生活を続けていた。家は長屋。隣に住む家族と裸電球一個を共有するような極貧生活だった。(日本人学校にしか通えなかったため)学問なし、生活基盤なし、親なし。日本へ帰り教育を受けることができた私たち(移民二世)はよかった、と思った」
日本帰国直前のダバオ国際空港。並里さんは「また僕だけ残してみんな帰ってしまうんですか」と与儀さんに泣きつかれた。「毎年、必ずダバオに帰ってくる」。そう約束して自身の着替えを除く所持品すべてを与儀さんに残した。幼なじみへの精一杯の誠意だった。
沖縄へ帰った後、並里さんは与儀さんの戸籍探しにほん走、日本出稼ぎで与儀さん一家の将来を開こうとした。幸いにして与儀さんの日本名「安二」は亡父三郎さんの戸籍に記載されていたことが判明。父の残した唯一の「遺産」により、今では日系三世にあたる子供たち四人が日本で働いている。生活状況は一変し、数年前には山奥からダバオ市内の住宅地へも移った。戦前の恵まれた生活から極貧状態へ暗転した与儀さんの人生。戦後六十年近くを経て、ようやく上向きの弧を描き始めた。(つづく)