バレテ峠
「十字架」と「抗日碑」
碑文にはこう刻まれていた。
「ここバレテをめぐる山野は一九四五年一月から半年にわたり『鉄・撃・泉』の日本軍と米比軍が壮絶な死闘を続け阿修羅の鮮血で染められた天地慟哭(どうこく)の戦跡である。この決戦は北部ルソンの命運をかけ祖国のため一万七千百余の両軍の戦士が砲火の中に散った。ここにその遺烈をしのび鎮魂の祈りを捧げ人類永遠の平和を願ってこの碑を建てる」
「バレテ」はルソン島中部の山岳部、ヌエバエシハ︱ヌエバビスカヤ州境にある峠、「鉄」は陸軍第十師団、「撃」は戦車第二師団、「泉」は陸軍第二十六師団を意味している。
峠は首都圏の北方二百キロ強に位置する。太平洋戦争末期、首都圏から撤退した旧日本軍がルソン島攻防をめぐる最後の防衛戦を敷いた要害の地だったが、半年近い攻防の末「鉄・撃・泉」はほぼ全滅した。
「この碑」は一九八四年三月、標高千メートルに迫る峠の頂上部分に遺族らの手によって建てられた。前面には大きな十字架、その下に日本語で小さく「戦没者追悼碑」と刻まれている。十字架と碑文には、攻めた側の慰霊碑を攻められた人々の大地に建立することの「意味」がにじみ出る。
碑の横には白い十字架と五十センチほどの小さな石碑が立つ。「戦没者追悼の碑」、「PEACE FOREVER」と記され、その下には付近で収集された遺骨の残灰が埋まる。
碑文によると、用地は、遺族らが地元ヌエバビスカヤ州サンタフェ町に公民館を寄贈したお礼として、当時の町長が「日比親善と永遠の平和を願って提供した」。石碑の建立は敗戦からわずか十八年後の一九七三年。十字架は七七年。反日感情がまだ色濃く残る中、やはり十字架を模さざるを得なかったのだろう。
これらの碑はいずれも北の方角を向いている。北風を正面に受けながら、地平線まで続くコルディリア山脈の山並み、その先約三千キロのかなたにある日本を見つめ続けている。
その日本からやって来た慰霊団が必ず立ち寄る食堂が峠にある。主は同町町長のオドリコ・パディリアさん(39)。両親は戦後間もなく隣のヌエバエシハ州サンホセ市からこの地に移住し、物心ついたころから日本人に接してきた。
「日本人は好き好んで人を殺したわけではない。日本人もたくさん死んだ。戦争を知らない私にとっては、みんな戦争の犠牲者ということだ。町民と慰霊団との交流は三十年近く続いており、今ではフィリピンで一番親日的な町になった」と言う。
旧日本軍のフィリピン侵攻から六十年が過ぎようとしていた二〇〇〇年五月、新しい碑が峠に建った。
「菲葎濱血幹團抗日殉難烈士紀念碑」。日本軍と戦い落命した中国系フィリピン人兵士を慰霊する碑だ。日本人の建てた碑から約百メートル離れ、碑正面は東向き。日本の碑に背を向けるように立っている。(酒井善彦)