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7月30日のまにら新聞から

バレンスエラ市の日本人墓地跡

[ 959字|2000.7.30|社会 (society)|名所探訪 ]

戦前の邦人社会の名残り

 カロオカン市にある軽量高架鉄道(LRT)の終点モニュメント駅からマッカーサー通りを車で十五分ほど北進すると左手にサンミゲルのビール工場が見える。そこからさらに五百メートルほど直進し、ドンペドロ通りを左折、ラジオ局の鉄塔に向かって二百メートルほど行くと、左手に手入れの行き届いた約五百平方メートルほどの公園風の敷地が目に入る。敷地の中央に約三メートルほどの「日本人之墓」などと彫られた石碑が立っている。これがなければここがかつて、戦前から戦中にかけてマニラで暮らし亡くなっていった在留邦人の墓碑が立ち並び、「ポロの日本人墓地」と呼ばれた大霊園だったことは想像できない。

 戦中フィリピンで発行された邦字紙によると、南進論の先駆者と言われる菅沼貞風が明治の初めに訪比し一週間後に熱病で客死、マニラ近郊の英国人墓地(現在のマカティ市南部墓地)に葬られたが、その後、昭和十年(一九三五年)に「ポロの墓地」に移されたと記されている。また、第一次世界大戦参戦でシンガポールに派遣され、凱旋(がいせん)途中だった日本海軍の軍艦「矢矧(やはぎ)」内で熱病がまん延しマニラに入港して治療を受けたものの四十八人が死亡したという事件があった。その病死者の墓も一九三八年にここに移され、立派な墓碑が建てられて海軍関係者や在留邦人によって慰霊祭が開かれたという。

 父の代の一九五九年から一族で管理をして来たというヨナルダ・バレンスエラさん(60)は、「戦後すっかり荒廃し墓碑の一部などがわずかに散乱する草むらになっていたのを、日本大使館が遺骨や墓碑の一部を回収し、六〇年ごろ新たに石碑を建てた」と教えてくれた。毎年七月中旬に行われていた慰霊祭も二年前から途絶え、いまではほとんど訪れる日本人はいないという。

 「現在は近くの住民の憩いの場所になっている」というヨナルダさんに「日本人の墓碑を守るのはなぜですか」と聞いてみた。彼女は「敷地内にただで住まわせてくれるから」とまず答えた。続いて、「終戦直後、近くに住むフィリピン人が、日本兵に殺された家族のかたきだとして散乱していた墓石を次々に足蹴にしていたのを覚えている。しかし戦争はもう遠い昔のこと。いまは何とも思っていない」と語り、敷地内で遊ぶ孫たちに視線を向けた。      (澤田公伸)

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