移民1世紀 第1部・1世の残像
第11回 ・ 比人と共に生き……:グラフ1
ベンゲット州バギオ市には、ベンゲット(別名ケノン)道路建設で命を落とした日本人移民らを埋葬した日本人墓地があった。一九二六年(大正十五年)五月、バギオ日本人会が建立した「先亡同胞諸制令菩薩塔」を中心に県人会の慰霊塔や個人の墓が緩やかな斜面一面を埋めていた。
戦後、バギオ市当局は「日本人墓地は存在しない」として一帯を比人市民に開放。日本人の墓碑は次々に壊され、代わってコンクリート製のひつぎが安置されていった。
一九七〇年代に入って同市の日系人組織「北ルソン比日基金」(カルロス・寺岡理事長)が墓地保存を図った結果、日本人墓地はセクション1(二百九十平方メートル)、同2(四十平方メートル)、同3(二十四平方メートル)、同4(十六平方メートル)と四つに分断されながら存続。
八三年二月にはセクション1の一角に「第一次・二次戦争前にこの国に定住した日本人と道路建設半ばに他界した日本人が、比の人々とともにいかに生き、彼らの福祉にいかに貢献したかを永久に語り伝え、その精神を継承するため」(碑文から)慰霊堂も建設された。
しかし、墓石の受難はその後も続く。決定的な打撃を与えたのは九〇年七月のバギオ大地震。強い揺れで墓石がことごとく地上へ落ち、割れた。旧日本軍が隠したという「山下財宝」を狙った盗掘被害も頻発。二〇〇二年七月にも十七基が修復不可能なほどに壊された。寺岡理事長の妹マリエさん(68)は「地震以降で一番ひどかった。朝、墓地の惨状を見た時は泣きたいぐらいでした」と言う。
自然災害や盗掘被害に遭うたびに、同基金が修復を続けてきた。しかし、相次ぐ修復で、死者の名前などが不明になり「のっぺらぼう」になってしまった墓も少なくない。
名前などが判読可能な墓石で最も古いのは一九一六年に建てられた福島県人慰霊塔。一九一〇年から一二年にかけて亡くなった「鈴木作右ェ門」「渡辺常松」「梅津半蔵」さんら六人がまつられている。
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第一部の番外編として、日本人墓地など一世の残像を写真で紹介する。(酒井善彦)
(2003.1.13)