移民1世紀 第1部・1世の残像
第6回 ・ サガダ町の「ヤマシタ」:ヤマシタ姓の日系人一家は教会建設の技術者の子孫。町では山下将軍よりも有名
フィリピン人の間で一番よく知られている日本人の姓は恐らく「ヤマシタ」だろう。旧日本軍第十四方面軍を指揮し、マニラからベンゲット州バギオ市を経てイフガオ州キアンガン町で降伏した「ジェネラル・ヤマシタ(山下大将)」。戦後六十年以上を経た今もなお、その存在が再三クローズアップされる「ヤマシタ・トレジャー(山下財宝)」。いずれも積極的な意味では使われない。
バギオから北へ約百五十キロ、マウンテン・プロビンス州サガダ町には、このヤマシタ姓を名乗る日系人一家がいる。一九〇六年(明治三九年)に福岡県糸島郡からフィリピンへ渡った山下徳太郎さん(一八八一年生まれ)の子どもや孫、ひ孫たちだ。
町中心部に住む徳太郎さんの三男ヘンリーさん(79)は言う。「戦争が終わると、ヤマシタと名乗るだけで必ず『お前はジェネラル・ヤマシタの親類か』とくる。バギオなどへ出ていく子どもには仕方なく(比人の)妻の姓を名乗らせた。首を切られては元も子もないからね」
今年三月に八十歳になるとは思えない、張りのある大きな声が居間に響く。そして「ハ」の字状に広がった自慢の白ひげに手をやりながら続けた。「姓を変えたのは子どもだけ。私自身は一度も父の姓を隠したことはない。戦争中、日本人の子どもというだけで米軍に引っ張られ、八カ月間収容所に入れられた時もそうだった。悪いことをしていないのだから隠す必要は何もない」
実は、ヘンリーさんたちが山下姓を堂々と名乗るには別の理由がある。サガダ町では「ジェネラル・ヤマシタ」よりヘンリーさんの父「エンジニア・ヤマシタ」の方が大きな存在だったからだ。
父徳太郎さんは、一九一〇年ごろ、他の日本人五・六人とともに山深いサガダ町へ入った。当時、同町一帯では米国人宣教師の一団が布教活動を進めており、徳太郎さんたちは木造の教会を石造りに建て替える工事の技術者として雇われた。
特に徳太郎さんは現場監督として工事を指揮していたようで、教会事務所に残る完成直後の教会の写真には「ヤマシタ」と英語の直筆署名が入っている。また布教開始百周年を記念して昨年印刷されたカレンダーでも「教会を建てたパイオニア」として建設現場に立つ徳太郎さんの写真とヘンリーさんら子ども九人の名前が紹介された。
徳太郎さんは開戦前の三八年に同町で病没。石造りの教会も戦争末期に米軍機の爆撃で破壊された。教会事務局長のジュリア・アバッドさん(55)によると、教会は戦後間もなく米国人らの手で再建されたが「町民の間では今でも『エンジニア・ヤマシタら日本人が建てた教会』として記憶されている。来年の教会創設百周年記念ミサには日本人技術者の子孫を日本から招待したい」と言う。
町にはもう一つ、「日本人伝説」が残っている。徳太郎さんたちが教会敷地内に建てたという寄宿舎とその周囲に群生する数十本の柿(かき)の大木。そして、街角のあちらこちらで自生する柿の木々。これらも「日本人の持ち込んだカキ」として今に伝わっている。(つづく)
(2003.1.7)