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戦後60年 慰霊碑巡礼第3部ルソン編

第2回 ・ 桃源郷の骨肉の争い

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マリコ村の台地に立つ「サラクサク峠慰霊碑」

 首都圏から真北へ直線距離で約百六十キロ、米軍再上陸地点のリンガエン湾から真東へ約五十キロ。太平洋戦争末期の激戦地「サラクサク峠」は、ルソン島北部へ連なるコルディリエラ山脈の入口に位置する。  

 「峠」へはヌエバビスカヤ州サンタフェ町から幹線道を外れて一本道。山道を一時間ほど行くと、稜線(りょうせん)の間に開けた広い谷地が現れる。パンガシナン、ヌエバエシハ、ヌエバビスカヤ三州の州境に接する辺境の地だ。

 戦争末期、マニラを脱した日本軍は尾根付近や谷に点在する台地に陣地を築き、パンガシナン州方面から攻め上ってくる米軍を迎え撃った。戦闘は一九四五年二月から六月まで四カ月間続き、日本兵四千六百、米兵三千二百人が死亡した。一日平均の戦死者は双方合わせて約七十人。局地戦の激しさがうかがえる。

 谷地一帯は「マリコ」と呼ばれ、その住民は戦時中も今も「イカラハン・カラングヤ」という少数民族。現在は、約二百世帯、約千人がキャベツやトマト、ニンジンなどを栽培しながら暮らす。州境にあるため、二百世帯の住所はパンガシナン州サンニコラス町、ヌエバビスカヤ州サンタロサ町、同州サンタフェ町と三つに分かれるが、バランガイ(最小行政区)名はいずれも「マリコ」。住民の間にも「マリコ村のイカラハン・カラングヤ民族」という強い一体感がある。

 日米両軍の激戦中、この一体感が大きく揺らいだ。両軍が住民を斥候や戦闘員として徴用したためだ。日・米どちらに味方するか。山あいで静かな暮らしを続けてきた民族はいや応なく戦闘に巻き込まれ、そして二つに引き裂かれた。

 マリコ村のエディ・マテオさん(32)は五年前、百十八歳で亡くなったという祖母から聞いた昔話を交えながら「村人には逃げる場所も(日米両軍と)戦うすべもなかった。日本軍につくか、米軍につくかという二者択一は、我が身を守り生き残るための唯一の手段だった。村人同士が日・米の最前線で互いに銃を向け合ったのです」と言う。

 千メートルを超える高地にあるため、もともと稲の育たないやせた土地。「食料を奪われ、畑を荒らされて餓死者が多く出たそうです。日本兵に捕らえられた米軍側の村民が拷問の末に殺されたり、レイプされた村人もいたと祖母から聞かされた」とマテオさんは続けた。

 そんなマリコ村のほぼ中央、こんもりした台地の頂上部分に「サラクサク峠の慰霊碑」は立つ。高さ約三メートル。日本の遺族らが一九七八年五月二十日に建立し、日本語と英語、そしてフィリピノ語で「第二次世界大戦の時、この地に倒れた日米比三国の将兵及び現地住民の死を悼み、その冥福を祈念してこの碑を建てる」と碑文が刻まれた。

 碑の立つ台地を渡る風は肌に冷たく、風切り音にさえぎられて眼下の人語も届かない。頂上から村や畑、稜線を見渡すと、開発や発展とは無縁な「辺境の桃源郷」という趣がある。

 その桃源郷を骨肉の争いに巻き込んだ日米両軍の戦闘。「六十五歳になる父親は銃弾が飛び交う中を逃げ回ったそうです。もう昔のことだが、もし私が戦闘に巻き込まれていたら、村に陣地を敷いた日本軍を恨んだでしょう」。碑近くに住むフェリシアノ・ピリアンさん(35)が話すように、六十年前の記憶は今も村人の胸の中で生き、そして若い世代へ語り継がれている。(酒井善彦)

(2005.12.6)

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