戦後60年 慰霊碑巡礼第3部ルソン編
第6回 ・ 祖父は日本人:イフガオ州の故坂井治太郎さんの子孫は、旧日本軍から住民を救った祖父が誇り
緑の美しい棚田が視界の続く限り、一面に広がるルソン島北部イフガオ州のキアンガン町郊外。その一画にある寂れた墓地に、太平洋戦争の前、戦中そして戦後をこの地で生き抜いた一人の日本人の墓が建っている。日本軍に協力した「過去」を持つと同時に、地元民の多くの命も救ったこの日本人の名前を、住民たちは今も記憶にとどめている。
キアンガン町は一九四五年九月二日、山下奉文第十四方面軍司令官が連合軍に降伏した地として知られ、今年の同じ日、その六十周年記念式典がこの地で挙行された。
墓碑銘は「坂井治太郎」、名前は漢字で刻まれている。愛媛県出身の治太郎さんは一九二〇年ごろ、マニラに渡った。その後、ヌエバビスカヤ州バヨンボン町に移って比人女性と結婚、製材所を始めた。二〇年代後半にはキアンガン町へ移り、家具商のかたわら、雑貨店を開き、地元民たちに溶け込んだ生活を送っていた。
その平和な日常を大きく変えたのが太平洋戦争だった。
侵攻してきた日本軍は周辺地域の地理に明るい治太郎さんに目をつけ、道案内役として従軍するよう命じた。このため長女のアイリンさん(81)や母、兄弟の一家は治太郎さんを残し、イフガオ州バヨンボン町に「疎開」した。治太郎さんが一家の元に合流できたのは四二年半ばすぎのことだった。
不利な戦況下、日本軍の抗日ゲリラに対する警戒態勢は厳しさを増した。そうした中、「身内が憲兵隊に捕まり、拘留された」という住民の中に、日本軍に顔のきく治太郎さんにすがる思いで頼み込んでくる者が増え始めた。
治太郎さんは日本軍に掛け合い、「この者は抗日ゲリラではない」などと身分を保証、釈放してもらった。治太郎さんに命を救われた住民は相当数に上ったという。
ゲリラとの容疑が晴れなければ、命を落としていたかもしれないだけに、戦後、命拾いした住民やその家族がキアンガン町に再び戻った治太郎さん宅を訪れ、感謝の言葉を繰り返し、野菜などを置いていったという。
敗戦後、治太郎さんは米軍トラックに乗せられ、強制収容所に向かおうとしたが、同行していたアイリンさんが米軍の通訳に「日本に知人は誰もいない。行きたくない。病気の父も帰さないでほしい」と必死に頼み込んだ。一念が通じたのか、父は車から下ろされ、一家の元へ戻ることができた。
終戦からわずか五年後、一九五〇年十月二十六日、カトリック信者となった治太郎さんはアイリンさんらに見守られながら、息を引き取った。子供たちはその享年を知らない。
「おじいちゃんは戦時中、多くの住民を救ったんだ」。孫のゼンジ・サカイさん(30)が墓石に腰掛けながら、胸を張った。年に数回、「おじいちゃんへの誇り」を思い出し、墓碑の十字架を真っ白く塗り替えるという。長男リカルド(75)さんも「父への誇り」を大きなより所に、一九六〇年代から約二十年間、キアンガン副町長を務めた。(水谷竹秀)
(2005.12.12)