比米戦争研究の出発点 バラギガの鐘の返還
筆者が国家歴史委員会長を務めていた時、バラギガの鐘返還問題について興味を持った。様々な提言を読み、韓国に保管されている鐘の返還だけを求め、米国ワイオミングにある鐘は機会を見計らって、もしくは反対する退役軍人たちが全員亡くなってから返還を求めれば良いと提案した。これには、鐘全部の返還を実現させるべき、鐘の返還はありえない、と両極端の反対意見が殺到した。しかし、ラモス大統領は半分の鐘の返還を求めた。残り半分は米国に残し、最終的に比で合流させればよいと。
ラモスは幼少のころ母親からホセ・リサールが川で草履を無くしたエピソードを聞いていたに違いない。リサールは片方の草履を川に流してしまった際、もう片方の草履も自ら川に流した。草履は片方では役に立たない。下流で拾った人が使えるようにという愛他主義の幼い発露だった。ラモスが鐘の半分の返還をクリントン米大統領に求め20年後に実現した。
しかし、鐘の返還は終点でなく始まりにすぎない。比の歴史研究における「フィリピン反乱」時代の研究にとり出発点だ。米国会図書館は「フィリピン反乱」でまとめていた書類や写真などの資料集カタログの表題を、1999年になってようやく「比米戦争、1899|1902」に改訂している。米国占領期、独立を求めて戦った比人たちは「山賊」や「野盗」などという言い方で「反乱者」とみなされた。アギナルドやマロロス共和国でさえ認知しなかった。
アギナルド政府やその兵士らから没収した資料はテイラー大尉がまとめ、米国に持ち帰った。スペイン語や比諸語で書かれた資料は翻訳され、「フィリピン暴動記録」として保管されてきたが、ガルシア大統領が訪米した1958年に原本が比に返還された。「フィリピン革命記録」として国立図書館に保管されているこの資料をさらに研究することで比米の愛憎関係がより鮮明に分析できるだろう。(12日・インクワイアラー、アンベス・オカンポ)