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10月1日のまにら新聞から

祈念碑メモラーレ・マニラ1945

[ 1330字|2006.10.1|社会 (society)|名所探訪 ]

罪なき戦争犠牲者の墓石

 六十一年前の一九四五年三月三日、「東洋の真珠マニラ」を廃虚に一変させた太平洋戦争最大の市街戦が終わった。二十八日間続いた日米の戦闘に巻き込まれ、死亡したマニラ市民は約十万人。約三八・六平方キロメートルの市全域を巨大な墓地に見立てると、約二十メートル四方に一つの割合で墓標が並んだことになる。

 祈念碑は市街戦から半世紀を経た一九九五年二月十八日、「罪なき戦争犠牲者の墓石」として完成した。戦闘で肉親を失った比人遺族らが建立に尽力し、最激戦地同市イントラムロスが設置場所に選ばれた。

 碑石と八人の群像で構成される碑には、遺族らの思いが凝縮されている。

 ひつぎのようにも見える黒い碑石。息絶えた赤子に深い悲しみの視線を落とす女性。あまりの苦痛に指と手首を屈曲させたまま目を閉じて横たわる男性。レイプされたためか、着衣の乱れた母親に寄り添って息絶えた赤ん坊。子供を抱きながら手で顔を覆う男性。

 さらに作家ニック・ホアキン作の碑文はこう刻む。

 「罪なき戦争犠牲者の多くは名も分からず、人知れず共同墓地に葬られた。火に焼かれた肉体が廃虚の灰と化し、墓すらない犠牲者もいた。この碑をマニラ解放戦(四五年二月三日︱三月三日)で殺された十万人を超える男と女、子供、幼児それぞれの、そしてすべての墓石としよう。われわれは彼らを忘れておらず、永遠に忘れはしない。彼らが、われらの愛するマニラの神聖な土となり安らがんことを願う」

 願いを未来の世代に伝えようと、廃虚と化した市街の写真などの歴史的資料や碑建立時の様子を伝える新聞記事などを収めたタイムカプセルが、碑背面に埋め込まれた。開封はマニラ市街戦から百年後、今から三十九年後の二〇四五年二月十八日だ。

 建立から十一年。祈念碑を囲むように整備された小さな公園は今、周辺住民らの憩いの場になっている。職探しの合間に公園の木陰で一休みしていたマウニシオ・ナベロさん(62)‖マニラ市バスコ‖は一九四四年、父親を日本軍に殺された。

 「父が二十三歳で殺された時、わたしはまだ母親の胎内にいた。だから父親の顔を知らない。一人っ子だったので、母が病死した五二年以降、独りで生きてきた。学校は小学六年の途中まで」と言う。

 子供のころは隣人の使いっ走りで生活費を稼ぎ、二十代から三十代にかけてはミンダナオ島の山奥で木材伐採に従事した。四十代に入ってからは貨物船の船員として働いた。四年ほど前に下船してからは定職がなく、二十七歳年下の内縁の妻にも逃げられ、一カ月三百ペソの部屋を借りての独り暮らしが続いている。

 ナベロさんは「祈念碑はマニラで死んだ人のために建てられたと聞いている。ただ、戦争はもう遠い昔のこと。日本人を見ると怖がっていた女は今や、金持ちになれると寄っていく」と笑うが、その半生は紛れもなく、父や教育の機会を奪った戦争の影に覆われてきた。

 戦前、十九歳で単身来比した大澤清さん‖二〇〇二年一月、九十五歳で死去‖が生前、「日本は戦争で比から何もかも奪い去った。東洋の真珠も、南洋の楽園も、みんな無くなって、悲惨なスクウォッター(違法占拠民)、優しい人情だけが今も残っているのである」と指摘したように。(酒井善彦)