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12月30日のまにら新聞から

「百年に一度」の台風を体験して

[ 4596字|2013.12.30|気象 災害 (nature) ]
炊き出し拠点に張ったテント内で食べる子どもたち=松本さん提供

 11月8日、ビサヤ地方中部を襲い甚大な被害をもたらした台風ヨランダ(30号)と全く同じコースを取った台風が、スペイン植民地時代の1897年10月にあった。歴史は繰り返すというが、それ以来「百年に一度」という表現が当てはまる今回の被災に対して、セブ島に在住する一邦人として、非政府組織(NGO)の支援にどのように関わったかを記録の意味も込めて報告したい。(松本重樹)

▽セブ市の被害は軽微だが

 台風の襲来した当日朝、セブ市の自宅の窓から外の様子を見ていたが、強い風雨のさなかに自転車で通る者や歩く人もいて、「これはいつもの台風」と変わらないと思った。ところがその後伝わるニュースで、レイテ島タクロバン市や近隣の惨状が判明し出す。今回の台風の中心進路はセブ島北端を通り、気になってセブ島最北部のダアン・バンタヤン町に住む知り合いへ連絡を取るも通信は全く途絶。次の日、この町に実家のある知人が車にコメなどの食料を積んで現地に向かい、通常3時間で行ける行程が倒木や電柱の倒壊などのため車体に傷を付けながら9時間近くかけて到着。帰ってきた知人からセブ島北部の惨状が分かり、道路の全通した情報を受けた3日目、私と妻もコメや缶詰などを持って現地に向かう。

 セブ市西海岸を北上し、60キロ地点から山間部に入ると沿道の光景は一変した。屋根を吹き飛ばされ倒壊した家屋や学校、幹の折れたヤシや倒木、残った木も太い枝が折れ、葉も全て吹き飛ばされ丸坊主状態。沿道には「NEED HELP」と書いた紙を掲げる被災した子どもが大勢並び、北へ向かうに連れて、事態は容易でないことが分かる。嫌な想像だが、この台風の進路があと50キロほど南側に寄ってセブ市を直撃していたら、タクロバン市を襲った6メートルに達する高潮によって自宅の建つ地域ものみこまれていた。また、人口の密集する西海岸の町やリゾートの集中するマクタン島などが水没、壊滅的な被害を受け、死者数万人に上るのではないか思い、直撃を免れた紙一重の僥倖(ぎょうこう)に安堵(あんど)するも、その分、別の地域に被害が広がった。

▽緊急支援の必要性

 ダアン・バンタヤン町には妻の父方の縁者が多く住み、休みの時に、時々泊りがけで利用する古い家があった。しかし、この家も屋根や壁が吹き飛ばされ、一帯はヤシの木や直径40センチもある太い樹木が、さまざまな方向に折れて散乱し、マンゴーの木は根こそぎ倒れ、バナナも幹の中途でちぎられ全滅状態。さながら巨大な竜巻が襲ったような様相である。私も妻も先年の東北大震災の5カ月後に被災県に入り、国際結婚家族への支援活動をした経験を持つが、その時見た津波の襲った跡の光景よりも呆然(ぼうぜん)とする光景が広がり、この様子から、被災者支援開始の必要性を持った。

 支援の内容は、何よりも大事な「食べること」の確保とし「炊き出し」を行うことにした。この炊き出しは東北震災支援時に数カ所で行っていて、被災者が寄り集まって交流を生じ好評だった。資金の裏付けは東北の活動時に支援をいただいた日本のNGО「IV?JAPAN」に協力を要請。このNGOは埼玉県に住む普通のおばさん達が運営する組織で設立から25年になる。現在はラオスを中心に縫製、調理、理美容といった職業訓練を職のない青年層向けに行い、緊急支援分野には門外漢だが代表以下が快く応じていただき、日本国内で募金活動を始めてくれた。

▽日本のNGOや自衛隊

 災害救援には国連や赤十字といった大きな組織を思い浮かべるが、いろいろな立場の各国NGOの活躍も目立つ。日本にはこういった自然災害の緊急支援用に「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」という、政府、財界、NGOの三者が設立した変則的な組織があって、今回のヨランダ被災には5億円余の支援を決定。JPFは1NGO当たり1千万円から4千万円を配分、16のNGOがレイテ島や周辺の島に食料や物資配布活動に入った。われわれの支援は、これら大きなNGOの組織力、規模に比べれば微々たるものだが、セブ島現地に住む者なりの事情を把握した活動はできると手配、器材万端を整えてダアン・バンタヤン町に入ったのは被災2週間後の11月21日。

 この頃には町の中央部だけに電気は通じ、屋根の吹き飛ばされた市場はいつものように商い、漁師の船も多数被害を受けながらも漁は復活し、魚やイカといった魚介類も並び、毎日焼かれたパンや氷も売っていた。炊き出しの始まった23日、自衛隊の医療班がヘリコプターを使って派手に同町に進出してきた。しかし、この町は近くにある小さな島と違って既に緊急医療の切迫感はなく、進出は何となく的外れ。自衛隊も支援とはいえ他国の被災地で自由な活動は難しいのだろうが、本当に必要な地域はどこかなどの情報収集、広報などは近くの町に進出したイスラエル軍に比べて見劣りし、情報とコミュニケーションの下手な旧軍以来の欠陥を引きずっているようだった。

 それでも「この暑い中、ご苦労様」と思って高校敷地内に設けた場所を訪ねたら、医療班はテントだけを残して片道40分ほどにある市から通ってくるといわれ拍子抜け。昼夜兼行の野戦病院のイメージを持っていた私も私だが、これでは自衛隊もサラリーマン集団と変わらず、こういった実情を報道しない同行した大手メディアの自衛隊広報班のような取材陣にもあきれた。

 NGOは浄財を集めて活動するので、その経理と費用対効果の事後チェックは厳しい。一方、史上最大の海外派遣をし機動力を誇る自衛隊も、今回の支援活動の費用対効果の検証は必要で、一線で汗を流す隊員はともかく、自衛隊上層部、及び日本政府に人道支援の名を借りた最新装備運用の「敵前上陸演習」と考える意図があったら問題は多い。

▽炊き出し始まる

 炊き出し拠点は町の中心部から6キロほど離れた幹線道路沿いにあるマリギンという住民3千人程のバランガイ(最小行政区)に設け、被災者でもある主婦、学生を中心に地元ボランティアを募るが、肉親がいまだ行方不明という人も加わる。ところが購入した釜は直径40センチ、高さ40センチが三つ。ひと釜で何人分のコメが炊けるのか分からず、朝はまず鶏肉入りのお粥「POSPAS」を作るが、ひと釜250食分もできて、作り過ぎかと思ったが、瞬く間に近隣住民にはけてしまった。

 その夜も炊き出しを行い、メニューは豚肉、野菜のトマト味煮込み。こちらは普通のご飯を炊くが150人分を配食。炊き出しの燃料は倒木や吹き飛ばされた家の古材が大量にあって困らないが、使用する水は片道30分をかけてポリタンクで運ぶ状況で容易ではない。また台風によって木陰をすっかり喪失、地元の人が「暑くてたまらない」と嘆くように、普段より5〜6度は気温が上がっているのは確実。この初日の経験から当初予定の1日3回、1回100食の配食では協力してくれるボランティアの負担が大きく、夕食のみ150食、土日は朝夕の2回と決定。しかし後半は手慣れたせいもあって1回200食に拡大したが、さすがに忙しい。

 炊き出しの対象者は子ども、女性、老人を中心とし、バランガイにある世帯を訪問して炊き出しチケットを配布して不公平さをなくすよう工夫。ゴミを極力出さないためにチケットにはビサヤ語で「食器持参」と明記した。またフィリピンの食習慣は米飯に汁気の多いおかずを混ぜて食べるので、毎日の献立は地元で普通に食べている鶏や豚肉を中心とする内容とし、野菜摂取が少ないので多目に入れた。メニューも毎日違い、野外の調理とはいえ、ルンピア(春巻き)、魚の甘酢あんかけ、肉団子といった手のかかるおかずも提供した。

▽炊き出しの効用と物資

 町は人口約7万人、20のバランガイを持ち、トウモロコシ栽培と零細な漁業で生計を立てるが、セブ島でも貧困率の高い地域で身内のフィリピン人海外就労者(OFW)からの送金で生活を頼る、フィリピン中どこでもある典型的な町の一つになる。今回の炊き出しでも「物資を」の声もあったが、炊き出しの場合は近隣の者が集まって会話やつながりを生じ、物資配布のような一方通行の関係ではないのは確かである。また、1カ所で炊き出しを続けると他の地域に不公平だという話になって、車に釜を積んで、支援の行渡らない山間部にある集落へ定期的に巡回、配食を行う。こういった山間部に入ると、昭和20年代後半、日本の光景と同じで子どもが大勢集まり、一家で5〜6人の兄弟姉妹はまだ少ない方で、10人を超える家も珍しくなく、フィリピンの抱える「人口爆発」問題にも遭遇した。

 救援物資は「リリーフ・グッズ」と称しているが、配布に関しては弱肉強食で、幹線道路沿いの被災者宅に有利で偏っているのが実情。ある被災宅にはベッドの下に配布物資がたくさん隠してあって、本当に必要なのかと感じた。もともと、質素な生活を維持している地域で過分な物資など益にならず、むしろ破壊された家屋再建用の材料を配る方が台風被害直後と違って有効と見る。実際、スイスのNGOがフィリピンの組織を使って、被害に応じて波板トタン、釘、のこぎり、ハンマー、スコップなどを配っていた。

 週末になるとセブ市方面から車を連ねて物資を配る団体や篤志家などの車が頻繁にやってくる。常々フィリピンの人は「走らない」と思っていたが、それらしき車が道端に停まると遠方から子どもも大人も車めがけて走り寄って、その場は騒乱状態。こんな中、道に投げられたお菓子を拾うため子どもが道路を斜めに横切り、車に接触する事故も発生。被害の甚大だったレイテ島やサマール島は違うだろうが、この地では被災者側も割り切って、援助物資の獲得は一種の楽しみになっている面も見受けた。

 こんな中、沿道で手を出す子どもに対して地元警察は捕まえるという警告を発し、確かに最近は手を出す子どもの姿が少なくなった。

 この炊き出しは都合17日間行ったが、被災直後ならかなり有効だったと思えるが、被災後1カ月を過ぎ電気も水も通じると、炊き出しも子どもに対する「栄養補給」事業となり、結局はフィリピンの抱える「貧困問題」に行き着く活動となって終えた。

     ◇

 炊き出しはコメ370キロ、約4千食を提供したが、この方法が最良なのかと常に考えるも、遠くから皿を持って駆け寄って来る子ども達の姿を見ると無駄ではなかったと思った。

 炊き出し拠点の電気と水道は被災1カ月目に復旧したが、まだ復旧していない地域も多い。丸坊主状態だった木々も新しく葉を繁らせ、ちぎれたバナナからは新芽も出て、倒れたヤシの木を製材し家屋の用材にするチェーンソーの甲高い音が各所から鳴り響く。台風被害を免れたトウモロコシ畑も順調に育ち、サトウキビの刈り入れも始まり、復興への道を歩んでいる様子が伺える。

 フィリピンは気候変動の影響からか、昨年は通常なら台風のないミンダナオ島南部を襲った台風、今年のボホール地震と、毎年のように自然災害に見舞われ、今後もこういった大災害に襲われる可能性が高い。今回の経験から即応体制を持った地元民による被災者支援NGOがあっても良いのではと考えている。

気象 災害 (nature)