9月27日にマカティ市のアヤラ美術館で、1945年2月3日から3月3日にかけて日本占領期に起きたマニラ市街戦の生存者7人にインタビューしたドキュメンタリー映画「戦争のこどもたち(The Children of War)」の上映会が行われた。当日のチケットが売り切れるなど150人を超える観客が上映会に足を運び、80年前のマニラで起きた市街戦の生存者たちの声を伝える同作品に見入った。マニラ市街戦の遺族たちの団体、「メモラーレ・マニラ1945」と第二次世界大戦財団(デズリー・ベニパヨ事務局長)がプロデュースした同映画を監督したマイク・アルカザレン監督(61)へのインタビューを紹介する。 (聞き手は澤田公伸)
―映画撮影のきっかけは。
父親がマニラ市街戦を経験していたことを昔話で知っていたことが大きい。ある時、私の子どもが5歳の時に、学校で戦争時代の話をしてくれと頼まれて父親が当時の話をしたことがあった。その生々しい経験の数々は子どもにも、一緒に聞いていた大人たちにもショッキングだった。それから自分が商業広告やドキュメンタリー映画を制作していたので、父親の証言を撮りためたいと思った。父親へのインタビューと撮影を始めたのは2014年のことだった。その後、マニラ市街戦の遺族団体の「メモラーレ・マニラ1945」から映画制作の話しを受けて引き受けた。
―父親はマニラ市街戦時、空き地で隠れていたと聞いた。
そうだ。フィリピン大の学生だった父は予備役に参加した後、戦時中には町で新聞やたばこを売っていた。日本人の下で働いたこともあったそうだ。マニラ市シンガロン地区に家族で住んでいた時に、マニラ市街戦が始まった。この地区では日本軍による男性住民たちの連行や虐殺が各地で起きているが、父親がたまたま路上で知り合いの日本人将校に出会い、彼から「すぐ隠れるように」と忠告を受けたそうだ。それで父親たちは家族で近くにあった高い壁で身を隠すことができた空き地に逃げ込み、そこで13日間息をひそめて隠れたのだ。爆撃や銃撃が続く間にも近くの民家で多数の比人住民が日本兵によって斬首される虐殺事件があり、首に傷を負いながら逃げてきた男性を介抱したこともあったという。
―今回の映画でインタビューの対象者はどうやって探したのか。
遺族団体からの紹介や最初の方にインタビューした対象者の方からいもずる方式でいろんな経験者を教えてくれて、幸運にも多くの生存者から貴重な話を記録に残すことが出来た。中にはきちんと証言できない方もいた。しかし、皆が当時のことを若い世代に伝えるためか一生懸命に記憶をたどり教えてくれた。
―最初にインタビューしたのは誰か。
ファーイースタン大の理事長だったルールデス・モンティノーラさんだった。彼女は、戦前の同大学創設者として著名な教育者だったニカノール・レイエス氏の娘で、マニラ市街戦が激しかった1945年2月9日に自宅に押し入った日本軍部隊によって本人の父や兄弟、親族らが目の前で虐殺され、その日の夜に避難した空き地でも隣にいた母親と祖母を砲撃の直撃で亡くすという悲劇を、自身の手記「Breaking the Silence」(1996年)として出版している。
でも彼女へのインタビューは大変だった。核心となる日本兵らによる自宅への襲撃の様子を尋ねると言葉が全く出なくなり、「私の手記に書かれている。それを読んで」というばかりだった。心の傷が今もうずくのだと思ったが、やはり本人の口から被害の状況を語って欲しいと思い、家族に関する思い出など周辺の情報を尋ねるうちに、徐々に事件の核心についても話をしてくれるようになった。
―最も印象に残ったインタビューは。
当時16歳だったフェリー・レイエスさんへのインタビューだった。実は彼女へのインタビューが最長だった。特に本人が市街戦直後に書き残した日記があったため、非常にパワフルで詳細なディテールを描くことが出来た。映画の最初の導入で使った日本の童謡「さくら さくら」も彼女が当時、学校で日本人から教わった曲だとして紹介してくれたものだった。
実は彼女の話しの中でも最も強いインパクトを受けたのは、彼女の学校の同級生で仲が良かった女子学生がマラテ地区で虐殺事件に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、避難先で徐々に意識を失う中、父母の名前だけでなく「フェリー、フェリー」と彼女の名前を呼びながら亡くなったと、後に親族から聞いたと話してくれたことだった。このエピソードは結局、映画の中に入れることは出来なかったが、名も無き多くの市民たちがこのような形で命を失い、後に残された人々にどのように記憶されていくのかを考えると重たいテーマだと思った。
―私も2回見た。ぜひ多くの日本人に見てもらいたいと思う。
日本でもぜひ上映したいし、海外上映に向けてさらに編集を続けている。日本と言えば、フェリーさんの息子さんの一人が日本の企業で現在も働いておられるという話を聞いて少しびっくりした。この息子さんの話しによると、フェリーさんは息子さんが日本企業に就職すると話した時、ただ黙っていたという。また、日本に遊びに来てくれと息子さんが言うと最初はどうしても日本に来てくれなかったとも。父親の説得もあって、ようやく日本に旅行に来てくれたと息子さんは言っていた。
別の生存者であるバスケス・プラドさんはマニラ市街戦当時、デラサール大学に家族で避難していた時に、日本軍によって父母と兄たちを目の前で銃剣で刺されて殺され、本人も銃剣で刺されながら何とか幸運にも生きのびることが出来るという過酷な体験者だった。でも彼にインタビューした際に、実は娘さんが結婚した時、ハネムーンとして日本に旅行したと聞いて、やはり驚いた。
―生存者らはこんなに過酷な経験をしても日本との関わりは絶てないということか。
私も日本に3回旅行している。日本との関係は絶てないし、はやり過去を直視し、歴史的事実から学ぶことが大切だと思っている。




