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ミンダナオの大地に生きる その1 三宅光さんに聞く「北大卒業まで」

2025/5/5 社会

自治会の活動にのめり込み、「三宅光はごろつきだ」と言われた大学生時代

1971年から半世紀以上の長きにわたり、ミンダナオのダバオにて、バナナ栽培の先駆けとして活躍されてきた三宅光さん(82)。ダバオ日本人会会長を通算22年間務め、また、ミンダナオ日本人商工会議所の創設者のひとりでもある。ロータリークラブ、フリーメイソンのメンバーとしてもダバオに溶け込んで多大な貢献をしてきた。その飾らない性格、歯に衣を着せぬ物言い、人懐っこい笑顔で、ダバオの邦人社会を長年牽引してきた三宅光さんは2024年、日本政府から旭日単光章を受章した。ミンダナオの大地に生涯をかけ、さまざまな経験をされてきた三宅光さんの生き様は、現在の我々に大きな教訓を与えてくれる。まにら新聞では全5回にわたり、「ミンダナオの大地に生きる」と題して、ミンダナオ日本人商工会議所によるインタビューなどをもとに、三宅光さん自身の言葉でその半生を振り返る。(前在ダバオ総領事石川義久)

 1 生まれてから大学入学まで

 私は昭和18年(1943年)1月3日、福岡県の博多で生まれました。父親は九州の小さな炭鉱の所有者の息子で、早稲田大学政治経済学部を出て戦時中は陸軍近衛部隊の少尉でした。母親は愛知県の庄屋の娘で小学校の先生でした。私は5人兄弟のちょうど真ん中、戦時中は母親の故郷である愛知県田原の加治に疎開し、のびのび育ち、中学生からは愛知県豊橋に移りました。高校は時習館高校。戦争から戻った父親は、日本相互銀行の豊橋支店長、名古屋支店長など重役をしていましたが、私は父親に反抗する毎日。勉強もしないで喧嘩に明け暮れていた自分は、17才の時、父親と大喧嘩して勘当されました。母親は泣きながら、自分も勘当してくれとまで言って父親に取りなしてくれましたが、私は家を飛び出しました。と言っても、高校生、ひとりで暮らしていけるはずもなく、母親が知り合いに頼んでその家に下宿させてもらい、なんとか高校を卒業しました。

 大学受験は、とにかく父親から遠いところに行きたい一心で、北海道大学か九州大学を目指しましたが、父親が九州出身であることを思い出し、北大を受けることを決めました。高校の担任が笑って「おまえが北大なんか受かるはずがない。」と言われ、かっとなった私は「先生、受かったら何してくれますか?」と先生に食ってかかりました。「受かったら腹一杯好きなもの食わせたるわい。」と言われて大発憤。3カ月間、殆ど寝ないで、北大の入試の過去問を解いたら、奇跡的に北大理類に現役合格しました。農学部を目指した理由は、ブラジルに移民して、農民になりたかったからです。そして、親元から離れ、意気揚々と札幌に引っ越したのです。

 2 北大時代

 大学に入ってから勉強は全くしませんでした。当時は学生運動華やかなりし頃で、私は自治会の活動にのめり込み、一年生の時に自治会の副委員長に抜擢されました。デモの指揮で血だらけになったり、どこかの授業に自治会メンバーを引き連れて突然乗り込んでは、「先生、4~5分話させてくれませんか?」と頼みました。当時の先生たちは学生運動に理解があり「どうぞやりなさい。」と言ってくれ、自分でも理解できない難しい言葉を並べ立てて学生たちをアジっていました。当時、北大のキャンパスで、「自治会の三宅光はごろつきだ」みたいなチラシが配られていたほどでした。当時付き合っていた彼女の部屋に転がり込み、母親から送ってもらったお金は無駄遣いし、いつも大学の掲示板に学費滞納者として名前が貼られていたことを覚えています。しかし、2年間の教養課程が終わり、自治会活動に失望した私は農学部林業科造林学教室に進み、林業の機械化について学びました。

 卒業が迫ってからは、4年間で取得すべき単位をわざと1科目だけ落として、留年期限の2年間、何か面白いことをやろうと企てました。私は中国からオートバイでシルクロードを1年間かけて、中央アジア、イラン、イラク、トルコまで行ってみたいと思い、その前の1年間、夕方から札幌の繁華街すすきのでバーテン、深夜からは北海道新聞の輪転機印刷のアルバイトをして、渡航費用をせっせと貯めました。さあ、いよいよシルクロード行きを実行する段階になり、大学の先生に挨拶しに行ったところ、「三宅。それだけは勘弁してくれ。おまえがどこで野垂れ死にしても知ったことじゃないが、大学に迷惑がかかる。俺のクビが飛ぶ。頼むからやめてくれ。」と説得され、泣く泣くシルクロード行きは断念せざるを得ませんでした。

 それで今度はタイのチェンマイに行くことにしました。当時、日本に輸入されているチーク材はタイ東北部の山林で伐採されていたので、そこで山林の機械化のためのデータを集め、自分の卒業論文にしようと考えたのです。チェンマイやチェンライには当時ほとんど日本人もおらず、タイ語もわからず、本当に苦労しました。現場に調査に入ったところ、伐採したチーク材は象使いが乗った象が器用に鼻で丸めて運んで山を下りていました。何頭の象がそれぞれ一日何往復してチーク材を運んでいるなんてデータを集めましたが、そんなのは林業機械化の卒業論文の材料になんて使えません。はたと困りました。半年間ほどチェンマイで過ごし、北大に戻ってから、「そうだ!先生がわからない言葉で卒論を書いてやろう。」と思いつきました。北大の林学の教授たちの語学を調べたら、その当時、スペイン語だけ誰もいませんでした。それから、毎日スペイン語を猛特訓。卒論はすべてスペイン語で書いて提出したところ、先生から「三宅。お前の卒論、なんて書いてあるかさっぱりわからないから、2ページくらいの概要を日本語で作ってくれ。」と言われ、「しめた!」と心の中で叫び、急いで概要を作り、論文の発表会もなんとか乗り越え、成績「良」をもらいました。これで卒業出来ると安堵した矢先、2年前にわざと落とした必修の1科目がまだ残っていたことに今更気づきました。林相学の世界的権威であった館脇名誉教授に単位を下さいと頼み込みました。先生は、仕方ないなあ、これから1週間毎朝6時に教室に来て、この本を読みなさいと英語の原書を渡してくれました。朝6時、暖房もない極寒の教室に防寒着をまとい、原書にかじりつき、必死に勉強しました。感想文を提出したところ、その先生が「三宅。よう頑張ったな。記念に俺の書いた研究論文をやる。」と上機嫌で言ってくれました。シベリアの地図に、細い線が書かれていました。これは何ですか?と聞いたところ、マカンバという樹木の生存南限線とのこと。私は先生のお話をありがたく拝聴するふりをしてから、その論文を丸めて教室を出ようとしたところ、背後から「馬鹿者!」という大声がしました。「俺が10年以上かけて、作った論文をお前はくしゃくしゃに丸めて持って行くのか!」と怒鳴られ、平謝りに謝りました。このようにして、私は危うくも、北大を卒業出来たのです。(続く)

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